朝日新聞を知る

林修先生に聞いてみた!
ズバリ!先生が朝日新聞を読む理由は?

真実を知る・視野を広げる・知識を増やす・家族とつながる・安らぎを感じる。朝日新聞のある暮らしでわたしが広がる5つのポイント。

予備校の人気講師であり、テレビでも不動の人気を得ている林修先生は、朝日新聞読者の一人として、その5つをどう捉えているのでしょうか。インタビューで語ってくれた新聞の魅力や先生流の新聞の読み方、そして朝日新聞への期待とは?

僕が何よりも新聞に求めるもの、それは…

新聞に求めるものは人それぞれでしょう。たとえば「安らぎを感じる」は、僕にはピンときませんし、新聞に安らぎを求めてもいません。なにしろ、たえず戦い続ける人生を送っているものですから(笑)。

僕が新聞に求めるのは、何よりも正しい事実認識です。5つのうち、「真実を知る・視野を広げる・知識を増やす」です。

根本的な問題として、「事実認識=価値判断」ではないということ。たとえば、冷蔵庫にビールが6本ある。これは、動かしようのない事実ですね。この事実を踏まえて、「6本しかないから買い足す時期だ」と考える人もいれば、「6本もあるから当分買わなくていい」と考える人もいる。これが、価値判断です。事実認識は基本的には1通りですが、価値判断は人それぞれで、どれが正しいと言えるものではありません。

今、メディアにおいても、この線引きが曖昧になってきていると感じています。特にインターネットでは、他者の判断を欲しているユーザーや自分と同意見を求めるユーザーが目立つため、判断を誘導するような情報を提供しがちなメディアも珍しくないでしょう。

しかし、事実認識と価値判断が曖昧な記事はとても困ります。特に新聞には、徹底した取材に基づいた正しい事実認識が求められていて、それこそが、新聞の信頼度の高さにつながるのではないでしょうか。朝日新聞の記事が大学入試の出題に最も使われているのは、そこへの信頼感があるからとも考えられます。今後も、プライドを持って正しい事実認識にこだわっていただきたいですし、そこにプロの専門性を発揮して欲しいと僕は思っています。

ネットの多数派=居酒屋で騒いでいるグループ!?

多くの情報にアクセスできる今は、批判が可視化されている時代でもあります。たとえば、僕は散々エゴサーチ(自分自身をインターネットで検索して評価などを確認すること)をして、ほめ言葉はさらっと、一方、批判はきちんと読みます。もし、僕の事実認識が間違っていたなら反省すべきですが、そうでないなら深く捉える必要はないでしょう。単に価値判断が“異なって”いるだけだからです。

これは、新聞記事に対しての批判も同じだと思います。批判にさらされて自信を失う記者もいるかもしれませんが、事実認識が正しければ、あとは、価値判断による“意見”ですから。

また、僕は、「インターネットのマジョリティー=居酒屋で騒いでいるグループ」という仮説を持っています。騒がしい10人グループの会話をよくよく聞いていると、本当にうるさいのは2〜3人だけで、中には他人への迷惑を考えて注意している人がいることもある。それがインターネットのマジョリティー構成に近いのではないかと。となると、新聞には、そのような声に振り回されないことが求められるのではないでしょうか。

一方で、今は異なる意見や判断を認める寛容さが乏しい時代ですから、新聞も、価値判断の領域に踏み込んだ記事には、「多様な意見がある」ことを示すことが、時に必要かもしれません。自信があるからこそ反対意見を併記し、世の中にはこういう考え方もあってその支持者もいるという事実を伝え、多様性を意識した伝え方をする。その結果、より、「真実を知る・視野を広げる・知識を増やす」ための新聞になるのではないでしょうか。もし、朝日新聞を読んで、違う意見を知って、視野を広げて知識が増えて……、自らの凝り固まった考えをほぐすことができれば、一つの理想形ですよね。

考え方は人それぞれですから、朝日新聞の価値判断に納得できない人もいるでしょう。それでも、朝日新聞が報じている事実認識の正しさ・そこから価値判断に至る論理の立て方には納得してもらえる、それが大事だと思います。

小さい頃から新聞を読む習慣がついているかどうか、それが大きい

新聞には全体像の掴みやすさがあります。1面を見れば、その日の中心となる記事がある。ページをめくりながら見出しを見ていくだけで、ある程度世の中で起きていることの全体像がつかめます。読むべきもの、読まなくていいものを自分で判断できるので、必要に応じて詳しい内容を読めばいい。概論から各論へという組み立てが非常にしやすいのです。

さらに、新聞は「回遊」して読めることが大きい。僕は、書店に行くと当初の目的以外の本も買うことがよくあるのですが、それと同じですね。自分の知りたいことを読んでいるうちに、まったく考えもしなかったような情報と出会える。僕の場合、朝日新聞の文化面で「あ、こんなことがあるんだ!」という発見が少なくありません。

そうやって「回遊」するなかで得られた知識は、後々、役に立つことも多いんですよ。僕はこの「余剰」こそが「知の本質」だと思っています。書店にせよ新聞にせよ、そうした「回遊」がもたらす魅力は、非常に大きいですね。

ただ、その「回遊」の魅力に気づけるかどうかには、小さい頃から新聞や本を読む習慣がついているかどうかも大きいと思います。新聞を読んでいる親の姿を子どもが毎日見る。それによって子どもにその習慣が伝わるのではないでしょうか。「家族とつながる」といった新聞の側面とも言えます。

我が家では、かつて朝日新聞の読み聞かせをしていた子どもも6歳になり、以前ほど僕のそばにいてくれなくなってしまいました(笑)。でも、新聞を読んでいてわからないことがあれば、「何これ?」と聞いてくるので、そこにコミュニケーションが生まれます。ちなみに、余談ですが、子どもと新聞を読んでいてたまにイラッとするのは、1面にある「しつもん!ドラえもん」の答えがなかなか見つからないとき! わざと見つからないようにしているのでしょうから、朝日新聞の思うツボ。そう思うと余計に、ね(笑)。

変わる新聞への向き合い方 若い世代に感じる希望

僕は、文章は書き出しが勝負だと思っています。文学作品でも、冒頭でガツンと感じさせて欲しい。横光利一さんの著書『上海』の冒頭などは秀逸ですよ。満潮になると河は膨れて逆流した——これは、革命の時が来たことのメタファーで、1行でそうとわからせる。「天声人語」などのコラムにも、最初の1行で「おっ」とさせてくれることを期待したいですね。

また、哲学者・鷲田清一さんの「折々のことば」は、とても好きで読んでいます。かつてのコラム「折々のうた」では、詩人で評論家の大岡信さんのきっちりした文章が、大変読み応えがありましたが、鷲田さんの文章は実にあっさり終わる。その投げっぱなしの感じがいいですよね。鷲田さんは、わかりやすさを過分に求める時代であるとわかっているからこそ、あっさり終わらせているのではないか。僕はそう思うのですが、どうでしょうか?

ただ、このような新聞の楽しみ方をする読者も、若い世代の新聞離れを背景に少なくなっていくかもしれませんね。新聞離れは、新聞社にとって大きな課題でしょう。しかし、価値観は時代性に支配されたものでもあります。通勤電車で新聞を読みながら出社することが一般的だった時代と、働き方の多様性が広がる今の時代の若い世代とでは、新聞への向き合い方も変わってくるはずです。大げさかもしれませんが、朝刊・夕刊という時間帯で情報を摂取しなければならないなら、それは束縛として敬遠されることすら考えられます。

その一方で、僕は希望もあると思っています。サブスクリプション(一定期間サービスを利用できる権利に料金が生じるビジネスモデル)など、形あるものか否かに関係なく、価値あるものにお金を払うという感覚・価値観は、僕たちの世代よりむしろ、若い世代に根付いているからです。そして、そんな彼らに、朝日新聞から得ることのできる情報の価値をどう認識してもらうのか。難しいことですが、信頼度の高いブランドとなり持続的な発展を遂げていく道は、こうした課題に向き合った先にあると思います。朝日新聞の視座は決してぶれないままに、今の時代性を踏まえて、新聞の在り方を考えるべき時が来ているのではないでしょうか。