就職活動

シューカツ見聞録

三浦美紀さん

福島県出身。立教大学社会学部卒。
子どものころから文章を書くのが好きで、新聞やジャーナリズムに興味を持っていた。Uターン就職で東京を離れるのはちょっと心残り。「大学生活があまりに楽しすぎたので」

第4章 地元に帰ろう(上)

「3.11の衝撃」

午後2時46分。

大学の教室内の机が激しく傾き、窓がいっせいにガタガタと音を立てた。

「地震だ、危ない」。印刷が間近に迫った「立教スポーツ」の新聞編集作業に追われていた仲間たちと、あわてて机の下にもぐりこんだ。

大学進学で上京して1年近く。すっかり東京暮らしにも慣れたその当時は、この東日本大震災が、自分の進路にこれほどまで大きな影響を与えることになるとは思いもしなかった。

地元の福島では震度4程度は割と経験していたが、こんなに揺れたのを経験するのは初めてだった。幸い落ちてくるものもなく、教室にいたスポーツ新聞部の全員はかすり傷一つ負わなかったが、大学側の呼びかけで学生たちは大教室に集められ、待機することになった。

大きなスクリーンに、NHKの中継映像が映し出された。震源となった東北各地の海岸に次々と押し寄せる大津波。海に面した宮城県東松山市出身の部員は、ずっと泣き続けていた。でも、自分の実家のある福島市は内陸部だ。連絡はつかなかったが、両親や弟たちはたぶん無事だろうと、他人事のような気分でいた。

その夜、鉄道がストップして帰れない同じ1年生部員のため、大学近くにある池袋の自分のワンルームマンションに女子5~6人が泊まることになった。みんなで料理を作って、ちょっとしたパーティー気分だった。酒は飲まなかったが、東京全体をも巻き込んだ大災害という異常事態への高揚感がそうさせたのかもしれない。

「弟をすぐに東京に送る」

ところが、翌朝テレビをつけると、思わぬことが起きていた。

福島第一原発から放射能が漏れ、周辺の住民が避難していることが報じられていた。「福島市内はだいじょうぶ?」。不安にかられたが、依然として連絡がつかない。テレビに釘付けになった。みんなが心配して、自分の家に来ないか?と誘ってくれた。でも、無性に1人になりたかった。昼ごろ、泊まった仲間が全員帰った直後、みんなの前で気丈に振る舞っていたのと対照的に、涙がぼろぼろとこぼれ落ちてきた。

「ボン」と原発がさらに水素爆発を起こす映像が目に飛び込んできた。自分が幼いころから、父親はこう言っていた。「原発が爆発したら福島は終わりだよ」。福島には住めなくなる――。ショックがさらに増幅する。だからと言ってテレビから目をそらしちゃいけない。見届けるんだ。

さらに翌日の13日になって両親とようやく電話で連絡が取れた。地震だけに関しては家族が無事だったことを確かめ、受話器に向かってたたみかけるようにたずねた。「原発やばくない?」。

父親は娘にかんで含めるように言った。「とにかく状況が分からないからお前は福島に帰ってくるな」「(1歳下の)弟をすぐに東京に送るから、お前の部屋で世話してくれ。俺たちはあと20年も生きないから」。その言葉に、抑えていた悲しみが涙とともに再び吹き出した。号泣するしか答えが見つからない。

一変した故郷の風景

おおよその事態が見えてきた4月末、大震災以来、初めて福島に戻った。津波を受けたでもない、地震でおびただしい数の建物が倒壊したわけでもない。が、心に映る風景は一変していた。

だれもが、原発や放射能と無関係に話をすることが出来なくなっていた。目に見えない放射性物質の線量を常に意識しないわけにはいかない。

友人と公園で昼食を取っていて、落としたおかずを拾おうとしたら、「それ、セシウムくっついているからやめなー」と止められた。居酒屋で出てくる品々にも「どのくらいセシウム入ってるんだべな」。不安や悲しみ、やるせない気持ちを冗談まじりの会話でまぶして押し殺すしかなかったのだ。

もともと国際協力や弱者の救済などの社会問題に興味があって、進学先に社会学部メディア社会学科を選んだのも、そんな社会問題を扱う機会の多い報道について学べると思ったから。ただし、入学当時は漠然とした関心でしかなかった。そこへ起きた2011年3月11日の大震災と原発の事故。地元のために何かしたいという気持ちとも重なった。ふるさとで新聞記者を目指す第一歩が始まった。

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