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鷲田さんに聞く連載への思い

ことばの語り手のジャンルの幅が広いですね。

知人には「何が出てくるかわからない。そこが面白い」とも「ごった煮だ」とも言われました。短い記事ですが、1面に載っているので、近所の人や友人、編集者など、いろんな方が声をかけてくれます。

取り上げることが多いのは、ひとひねりある、普通とは違う物の見方をしていることばです。たとえば民芸運動を主導した柳宗悦のことば(2015年5月3日)。自分の凡庸な考えをひっくり返されると気持ちがいいですね。

でも家内は、「素直なことばも出さんと、人が悪いと思われる」と言います。白菜の出来をほめられたおばあさんの、「今年はようお照らしがありまして」(同5月24日)を紹介した時には、ほっとしたそうです。

他に評判がよかったのは?

ズバッと直球のことばです。美術家のやなぎみわさん(同4月15日)なんかそうですね。この春の大学の入学式でも式辞で紹介しました。

少し前までは、物事に批判的な視点を提示するのが知的とされてきました。今は「こっちに向かうべきでは?」と、一定の方向感覚をきちんと示すことが知的と受けとめられるようです。一つ間違えると、誰かが何でもわかりやすく言い切るのを期待する風潮にもつながりかねないですが。でもやなぎさんのことばは、歯切れがいいだけではなく、聞いた人の背中をぽんと押してくれます。

意味をただ解説するのではなく、そのことばをきっかけに鷲田さんが考えたことをつづっています。

なぜこのことばに引かれたのだろうと考えながら、書いています。意味だけでなく、口調やリズム、肌触りに、じんとくることがあるんです。九州の女子学生の「くやしかあ」(同6月11日)という叫びなどはその例ですね。

文字に書かれていない、ことばの向こう側にある背景も大切です。ロックミュージシャン・忌野清志郎の「誇り高く生きよう」の歌詞を取り上げた時には、ライブでの「愛しあってるかい?」というおなじみの呼びかけも紹介しました。凡庸なことばなのに、なぜ清志郎が言うと引かれるのか。「愛されているかい?」「愛されたかったら、愛さなくてはいけない」という温かい問いや思いがあるからではないでしょうか。

昔からことばを書きとめてきたノートがネタ帳だそうですね。

最近は、「あんなことばがあったはずだ」と、書棚の奥の古い本を捜すことも増えました。大学時代に読んで40年以上開いていなかった芥川龍之介(同4月25日)やマルクス(同5月18日)も引っ張り出しました。二度と読まないだろうと思っていた本を開き、今になって書かれていることの意味がわかることがあります。ことばの意味が本当にわかるには、時間がかかるのだと思います。

でも、僕自身がどういう人のことばから栄養をもらい、ものの見方をつくってきたのかを公開しているみたいで、ちょっと恥ずかしくなってもいます。

毎日の連載で、生活は変わりましたか。

仕事部屋には引っ張り出した本が山積みです。毎日夕方に原稿の確認をしなくてはいけないので、飲みに行きにくくなりましたよ。

(聞き手・高重治香、村瀬信也) 2015年6月21日付本紙から