福島県出身。立教大学社会学部卒。
子どものころから文章を書くのが好きで、新聞やジャーナリズムに興味を持っていた。Uターン就職で東京を離れるのはちょっと心残り。「大学生活があまりに楽しすぎたので」
第4章 地元に帰ろう(中)
「同郷の若者との出会い」
「お前ら帰れ、帰れ~!」
見知らぬ男の容赦ない声が、都内から東北行きの長距離バス乗り場に並ぶ人々の列に向かって浴びせられた。
「差別」という言葉が頭に浮かんだ。東日本大震災が起きて1カ月半後。ようやく事態が落ち着き、1カ月遅れのスタートが決まった2年前期の前に一度、地元福島にいる両親のもとを訪ねようとした時のことだった。不安とちょっぴり懐かしさが入り交じる胸の内に、ナイフを突き立てられたような恐怖が襲った。
怖い……。怒りもこみあげてきた。福島出身というだけで、何か周りから特別な目で見られるような気がして、そのあと大学へ行くのでさえ気が重かった。
「出身どこ?」と聞かれて、「福島だよ」と答えると、微妙な間があって「大丈夫?」と。 こちらも大丈夫かなんて分からないままに「大丈夫」と言うしかなかった。福島出身というだけで何かしゃべらなきゃならない場面が増えたが、どう思われているのか相手の心は読めない。
部活の仲間などが発する何げないセリフに心が凍りつくこともあった。授業の期間が短くなることを期待して「また原発爆発しねえ かなあ。休みになるのに」。はっと我に返った彼は「そういうことじゃないんだ、ごめん」と謝ってきたが……。さらに雨が降れば、放射能が落ちてくると言う人もいた。本人は冗談のつもりだったかもしれないが、身近な人からの何げない言葉だっただけに、より傷ついた。
県人会への誘い
そんな時、別の大学に通う同郷の学生が首都圏にいる福島出身の若者を集めて、「県人会」を開いていることを知った。2年先輩の彼は震災の前から、東京と福島をつなぐ取組みに情熱を傾けていた。他の都道府県出身の知り合いから自分だけが浮いている、孤立しているという意識が先行し、寂しかったかもしれない。彼に誘われて、福島関連のイベントなどに連れていってもらうようになって、だんだんと福島と自分の距離が縮まるのを感じた。県人会のみんなとなら、安心して話もできるし、差別や遠慮の気配を感じたりするなど似たような経験もお互いにわかり合えた。
上京したてのころ、大学を卒業後も都会に残って働き続けたいというほど、東京へのこだわりがあったわけではなかった。かと言っ て、福島に必ず戻ろうと決めていたわけでもなかった。でも、震災が、原発事故が、そして同郷の多くの人たちとの出会いが、福島への愛着と、帰ろうという気持ちを強くさせた。
ジャーナリスティックな物の見方への関心も高まった。東京でへこむことも多かった一方、帰省した時は悲観してばかりはいられないと、自分でもやれることはないかと線量計であちこち測りに出かけた。すると、テレビや新聞で伝えられる放射線量よりもずいぶんと高かった。除染、除染とメディアで盛んに伝えられる現実も、すぐ目の前に横たわっている。
いわゆる「脱原発デモ」に共感しつつ、違和感も持った。福島は汚染されているとか、福島の子どもは避難させるべきだとか、県と 無関係の人たちの一面的な、決めつけるような主張には腹が立った。その反面、自分の3歳のめいを福島市内の公園で遊ばせた時、砂場遊びはさせられなかった。不安をあおられる風潮、風評被害を招くような論調に反発しながら、不安がないわけじゃない自分にも気づいている。
「書くことで恩返しを」
考えることはいろいろ考えたが、大学生活が忙しくてボランティア活動などもろくに出来なかったという罪悪感も抱えていた時、スポーツ新聞部に所属していた縁で、朝日新聞に記事を書く機会をもらった。「ソシテワスレズ」のタイトルで書かれたその記事には、地元から多くの反響をもらった。知り合いの一人からは「(自分たちの気持ちを)代弁てくれてありがとう」というメールももらった。
いろんな意見が飛び交い、自分でも答えが出ないけれど、一生懸命に考えて表現していくことで、少しは地元への役に立ったのかもしれない。だったら、自分が好きな「書く」という行為を通して、福島と関わり続け、役に立ちたい。震災から1年経った2012年の4月。故郷で記者を志す意志が芽生え始めのはそのときだった。「ソシテワスレズ」の記事の最後はこう結んだ。「地元を思い、精いっぱい生きる。その中で自分にできることを見つける。それが故郷への恩返しになると思っている」
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