「気持ちのままにアクセルを踏む」
丸山 京子が語る仕事―1
英語を使う就職、に失敗
帰国子女の夢と現実
父の仕事と共にニューヨークへ移ったのは小学3年生になった時でした。現地の小学校にポンと入れられ、全く言葉が分からず半年ぐらいほとんど何もしゃべらなかった記憶があります。でも学校には英語を話せない生徒向けのクラスがあって、私はプエルトリコやイスラエル、中国などの子どもたちと一緒に初歩から習うことができたんですね。それで半年経ったら、ある日突然話せるようになっていました。
やがて6年生の卒業間際に日本へ戻り、公立の中学校に入学します。突然、英語をしゃべれる子が入ってくると、いじめとまではいかなくても距離を置かれる。特に英語の先生には嫌がられてしまったので、意識して授業でも話せないふりをしていました。今になれば、その分、日本語が普通に使えるように戻って良かったのだと思えますが、やっぱり英語が懐かしく、ラジオでFEN(在日米軍向け放送/現AFN)や小林克也さんがDJだった洋楽番組を聴く日々でした。アメリカのポップミュージックが何より好きでした。
就職を考える時になっても、英語と音楽に心が行き、それに関わる仕事がしたいと真剣に思って、この会社ならと狙いを定めて赴くのですが総崩れ。10社以上に落ち、これは英語と音楽なんて言っている場合ではないと気づき、最後に何とか外資系企業に受け入れてもらいました。でも英語が使える部署ではなく、欠員が出た総務課に急きょ人が必要だからということでした。
この会社では無念な思い出があります。総務課に入った新人丸山さんは英語が話せる、ということで会議の通訳に駆り出されたのですが、その会社の業務内容が何も分からず全然役に立たなかった。英語は一つの道具で、仕事で活(い)かすには、まず業務内容を理解しなくてはならないのだと痛感した出来事でした。
きっかけはDJコンテスト
大学を出たら就職しなくてはという流れに焦って入社したものの、1年目からここが自分の居場所ではないと感じました。でも、辞めるなら本当にやりたいことを見つけてから。そう決めていた私の目に、バイリンガルDJコンテストの記事が飛び込んできました。TBSラジオとイングリッシュジャーナル誌の共同主催。ちょっと面白そうだと見てみると、好きな3曲を選んで、イントロと終わりの間をしゃべりでつなぐという課題です。
私はカセットテープレコーダーをガチャンガチャンと操作し、よく聴いていたFENなどをまねて自作自演。思いがけずこの応募がトントン拍子に進み、英語と日本語を使うラジオCMのナレーションの仕事を頂きました。楽しかった。でも会社勤めもあって、その1本だけで普段はまたOL生活です。
ところがそのコンテストの模様がイングリッシュジャーナル誌に紹介されていて、企画主催者の方がインタビューの中で「合格者は皆さんお勤めをしている方々なので、今後DJを仕事にするかどうかは分かりませんね」といった内容が書かれていました。それを読んだ時「今の会社を辞めれば、この仕事は私にくるかも」と妄想して退職。何のオファーもないのに(笑)。でも、会社を辞めましたと主催者に報告する勇気はなく、今で言うフリーターのような身になりました。(談)