「誰にでも、光る役割がある」
akaneが語る仕事--1
踊る幸せを知って欲しい
ダンスから離れず生きるには
保育園で私が踊っている姿を見て、母親がダンスをやらせたいと思ったそうです。よっぽど楽しそうだったのでしょうか。3歳から近所のジャズダンス教室に通い始め、やめたいと思ったことは一度もありません。
そこは舞台を専門としている教室で、ちょうどキッズダンサーなどが人気の時代になり、私も衣装を着てステージに立つ機会に恵まれました。また、祖父と祖母も趣味で社交ダンスをずっと続けていて、子どもながらに踊るっていいなと感じながら大きくなりました。
ダンス教室に通い続けながら、地元の大阪府立登美丘高校に進学してダンス同好会へ入会。でも、同好会だと活動の場が限られていました。部に昇格すれば部費が出るし、顧問の先生が居てくれて練習時間も確保できる。交渉するしかないと必死で先生たちを説得しました。
私たちは、つけまつげが命でスカート丈はひざ上という校則破りも辞さない「ギャル」の名残世代でしたが、「校則は必ず守ります」と約束してダンス部にしてもらいました。先生にも遠慮せずに意見を言うので私は異端児と言われましたが(笑)、言葉にしなければ始まらない。それは今でも大切にしている思いの一つですね。
こうして、踊ることが生活の全てというほど楽しい高校時代を経て、進学した大学では舞踊学を専攻しました。ここがまた刺激的で、いろいろな地方からダンサーが集まり、ダンスを学びながら将来についてもよく話をしましたね。
そして、大学で古いミュージカルの映像や、映画『キャバレー』『レニー・ブルース』などを振り付け、監督したボブ・フォッシー作品を見て心から制作者を尊敬するようになりました。ダンスから離れずに生きていきたいと思っていた私に、振付師という仕事が目標として見えてきたんです。
母校ダンス部が私を成長させた
私は大学時代から、母校登美丘高校の振り付けを担当してダンス作品を作ってきました。もう自分は高校生じゃないから、いくら出場したくても高校ダンスコンテストには出られませんが、頑張った後輩チームを優勝させられなかった自分の力不足が悔しくて、ダンス創作や舞台への研究に力が入っていきました。
本当は私も含めて皆、自分が踊りたい、その姿を見られたい。でも舞台に立てないからこそ、早いうちから観客の立場で作品を俯瞰(ふかん)する機会が、私にはやってきました。お客さんの反応を間近で見聞きするうちに、ここが狙い目だと仕立てた所がうまくウケたりして、制作側の振付師で食べていく覚悟ができたのです。
それでもね、未練がましく自分の作品に出たことがあります。その映像を見直すと、練習不足で踊りがずれているのは私で、何だか作品を自分でぶち壊しているなと(笑)。それに、舞台で踊っているとお客さんの反応は分かりません。これでは自分が楽しむだけの自己満足に終わってしまう。制作する仕事を目指すなら、欲を出してはダメだ、と改めて自覚しました。
私は、ダンスってどれほど自分自身と人を楽しませられるものか、私のキャリアを通して伝えていけたらなと思っています。(談)