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深代惇郎の天声人語

1970年代に天声人語を担当した深代惇郎は、根強いファンが今も多い。

2年9カ月の短い執筆だったが、読者に深い印象を残した。紙価を高まる中で白血病に倒れ、46歳でこの世を去った。
今もその筆づかいを懐かしむ便りが天声人語あてに届く。深代が執筆した天声人語から。

ふかしろ・じゅんろう

1929年東京都生まれ。東大法学部卒。53年、朝日新聞社に入り、社会部、ヨーロッパ総局長などを経て73年2月から75年11月まで天声人語を担当。急性骨髄性白血病に倒れ、同年12月17日死去。享年46。

新聞の責任 (1973・10・15)

「ニュースを作る人々と、ニュースを報じる人々との争いは絶え間なくつづく」。米国の新聞人レストン氏の言葉だ。新聞はいつも政治に文句をいい、政治家や役人は、自画自賛に飽きることがない▼米国の偉大な大統領ジェファーソンは「余は、新聞なき政府より、政府なき新聞の方を好む」といって、これはしばしば引用されるのだが、後年になると「新聞を読まない者の方が、読む者より正しく知っている」といった。こちらの言葉は、あまり引用されないようだ▼日本の首相も、はじめは「記者諸君との対話」を心がけるが、日ならずして秋風が立ちはじめる。新聞にも反省すべきことは多いだろうが、権力をもった人が新聞ぎらいになるのは「こちらの立場を考えてくれない」ということなのだろう▼しかし新聞記事は、人間のつき合いで「相手の立場に立つこと」とは話がちがう。いくら美辞麗句をならべても、自分のにぎった権力を正当化し、これを永続化しようと努力しない政治家は、この世に存在しないからである。また専門家は「新聞は実情を知らずに批判する」と不満をもらすが、これも簡単にはうなずけない▼民主的コントロールとは、シロウトである大衆の方が、結局は、利害に巻き込まれたクロウトより賢い結論を出すという考え方で成り立っている。もし情報を独占する専門家の方が正しく判断できたならば、米国はベトナムで誤算するはずはなかった。日本の公害企業は、だれよりもさきに公害を世間に知らせたはずだった▼新聞はまず何よりも、正確な情報を伝えなければならない。そして正確な情報は、その新聞の立場によって選択されたものである。この二つのことに、新聞は責任をもっている。きょうからの「新聞週間」に、あらためてその重さを思う。

天声人語70歳 (1974・1・5)

きょうは、このコラム「天声人語」の満七十歳の誕生日にあたる。いささかの手前ミソながら、それについての一文を供することを許されたい▼大阪朝日新聞にお目見えしたのは明治三十七年一月五日、日露戦争の一カ月前だった。鳥居素川の筆による第一回は、主戦論を述べて威勢がよい。「政府では成るべく向ふから先に火ぶたを切らせ様として居るらしいが、ドンドンやって早く片づけるが得策」といっている▼その後は大正デモクラシーの旗を掲げたが、日米開戦前年に「有題無題」、戦局ただならぬ昭和十八年に「神風賦」と改題された。「天声人語」が復活したのは、終戦直後の二十年九月。したがって七十年の歴史も、五年間は他の表題だった。復活第一回には「何故戦はねばならなかったか、深き想ひを致さねばならぬ」との反省を書いている▼日露の主戦論で登場し、太平洋戦争の反省で復活する間に、近代日本の歴史がそのまま横たわっている。草創期には西村天囚、中野正剛、長谷川如是閑らの論客が交代で筆をとったが、永井瓢斎が専念するようになって紙価は高まり、西日本に「天声人語の会」が生まれるほどだった。戦後は荒垣秀雄氏が十八年書きつづけた▼二十二年の中秋の名月には「来年の今月今夜は国民の涙でなく、モクモクと出る煙突の煙で、名月を思い切り曇らせてみたい」とある。焼け野原の壕舎(ごうしゃ)で月を見る人の多い時代だった。その十五年後、三十七年十二月には「東京や大阪の空は、ドジョウの住むドブのようだ」といい、「青空をとりもどせ」と書かねばならなかった▼「天声人語」は「天に声あり、人をして語らしむ」の意。しばしばこの欄を、人を導く「天の声」であるべしといわれる方がいるが、本意ではない。民の言葉を天の声とせよ、というのが先人の心であったが、その至らざるの嘆きはつきない。

夕焼け雲 (1974・9・6)

夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、すばらしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るにつれて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯ひっかけたように、ほんのりと赤く染まった▼美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶(せいぜつ)といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに、日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく▼私を取りかこむ墓標がある。それがそのまま、天空に大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界でもっとも醜い大都会だろう。その摩天楼は、毎日のお愛想にいや気がさしている。踊り疲れた踊り子のように、荒れた膚をあらわにしている。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった▼もう一つ、夕焼けのことで忘れがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者V・フランクルの本「夜と霧」(みすず書房)の一節だ。囚人たちは餓えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない▼囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき、一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え上がる美しい雲」がある▼みんなは黙って、ただ空をながめる。息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。数分の沈黙のあと、だれかが他の人に「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」と語りかけるという光景が描かれている。

新聞批判 (1975・10・15)

「新聞は歴史の秒針」といわれる。秒針だからたいへんせわしく、忙しい。分秒を争って報道し、論評する。時には秒針に先んじて報道する。それが勇み足であったり、見通しの良さであったりもする▼「締め切り時間」に追われ、書くそばから原稿用紙の一枚一枚が活字にされる。時間がなくて、弁慶の勧進帳のように、頭の中で記事を作りながら電話で読み上げることもある。一方で、この「秒針」を何日もかけて丹念に読み、さらに何日もかけて新聞批評の筆をとる人もいる。締め切り時間という情状は、批評の対象ではない。取材先に逃げられ、あるいは口をつぐまれる事情を考慮してくれる批評もない▼別に、新聞批評に苦情をいっているわけではない。苦衷をお察しあれ、と訴えたいわけでもない。ただ、批評とはそうしたものであり、そして批評は大切なものだ、といいたいためである。役所や企業は、消費者や新聞が批判する。政治家には選挙がある。しかし、批判する新聞を批判する強力な社会的な仕組みはない▼批判されない社会組織は、当事者がいかに善意をもっていても、独善と退廃の芽をはぐくむ。新聞は、そう信じている。だからこそ、他の社会集団を自由に批判する。他人を批判しながら、自分だけは例外だといううぬぼれはない。新聞批判は必要であるという以上に、それなしには新聞もまた独善の弊に陥る▼新聞が何よりも「自由」を求めるのは、それが社会で有益な役割をはたす最善の道だと考えるからである。自由な新聞の立場は、政党や固定したイデオロギーとは縁がない。また自由な立場で物を言うからこそ、対立する集団の双方に、自己修正の契機をあたえ得るはずだと信じている▼したがって、自分の政治的立場に近づかないという理由で批判されることは、新聞にとっての栄誉である。そして、そうした批判も含めて、新聞を批判することは新聞のもつ批判機能をより健全なものにするために不可欠だと考える。きょうから「新聞週間」がはじまる。

深代最後の天声人語 (1975・11・1)

かぜで寝床にふせりながら、上原和著「斑鳩(いかるが)の白い道のうえに」(朝日新聞社)という本を読んだ。聖徳太子という日本史で稀有(けう)な理想主義的政治家の悲劇を描いた本である。著者の幻想が、手堅い学問的手法に裏打ちされて、力作だと思った。たまたま新聞を手にしたら、亀井勝一郎賞にきまったと知り、故亀井氏をしのぶのにふさわしい作品だとも思った▼聖徳太子といえば、小学校で習った知識しかない。十人の話を同時に聞きわけられる賢者で、物部氏を滅ぼして仏教を盛んにしたり、十七条の憲法を作った有徳の人だとか、そんな程度だった。おとなになってからの「聖徳太子」は、会ってもすぐお別れしなければならない人で、それにあの肖像画に魅力はなかった▼聖徳太子には、暗い影がつきまとっている。十代のときに、血なまぐさい政争に明け暮れした。物部守屋を殺すことに加担し、その所領を自分のものにした。崇峻天皇暗殺では、張本人の蘇我馬子がクーデターに成功すると、二人で推古体制を支える柱になった▼法隆寺は、聖徳太子の血塗られた手で創建された、と著者はいう。四十九歳で世を去ったが、その前日にお妃に先立たれた。その看病に妻の精根がつきはてるほどの業病だったのだろうか。あるいは梅原猛氏の大胆な推論のように、自殺か、心中だったのだろうか▼その死後三十一年たっても、悲劇は続く。皇位継承の争いに巻き込まれ、聖徳太子の一族二十数人が蘇我入鹿の軍に包囲される。一度は生駒山中に逃れ、挙兵の機会は十分にありながら、なぜか一族は斑鳩の里に下りてきて、女も子どもも一族皆殺しにされた▼このときの包囲軍の部隊長はやはりこの計画に関係したともいわれる孝徳天皇に頼んで、法隆寺に寄進をする。権力に狂奔し、怨霊(おんりょう)におののく古代人たち、いつかもう一度、法隆寺を訪ねてみたい。

おすすめ

深代惇郎の天声人語
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ISBN:9784022618337
定価:778円(税込)
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A6判並製   536ページ

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《目次》 世相/社会/政治/経済/若者/戦争/国際/日本と日本人/人/人生/文化/自然/歴史 《解説》 辰濃和男

続 深代惇郎の天声人語
深代 惇郎

ISBN:9784022618498
定価:778円(税込)
発売日:2016年2月5日
A6判並製   512ページ

朝日新聞1面のコラム「天声人語」。この欄を1970年代に3年弱執筆、読む者を魅了し続け新聞史上最高のコラムニストとも評されながら急逝した記者がいた。その名は深代惇郎――。彼の天声人語ベスト版文庫が好評につき、続編も新装で復活!

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