「弱さもさらけ出し、次を考える」
北島 康介が語る仕事--2
まだ自分は進化できるか
北京オリンピックへの道の険しさ
2004年アテネオリンピックの平泳ぎで、二つの金メダルを手にした僕は21歳でした。水泳選手の体力のピークは10代後半から20歳ぐらいまでと言われていますが、まさにその体力の充実を実感できていました。でも、オリンピックの強い緊張からやっと解放されたせいか虚脱感があり、また、行く先々で多くの人が自分を見知っているという状況は初めてのことで、居心地が悪かったですね。
1カ月近くも休養を取ったにもかかわらず、平井伯昌コーチの元へ戻れたのは「自分たちのゴールはアテネではなく、次の北京で連覇すること」という目標を共有していたからです。これからの4年間がどれだけ厳しい時間になるか、頭では分かっているつもりでした。それでも水泳に集中できず、気持ちが入っていかないまま。その結果は翌05年春の日本選手権で表れ、200メートルで3位、日本の選手に5年ぶりで負け、続く06年の200メートルでは4位。オリンピックどころか国内大会で表彰台に立つことができませんでした。
体調不良による練習不足など要因はありましたが、結局は気持ちが集中できていなかったということに尽きます。国内外のレースに出る度に世界記録を期待され、負ければ「北島限界か」とも言われました。ただ、平井コーチの指導に絶対の信頼を置いていたので、今記録が伸びなくても北京までにはやれると、不本意な記録でも受け入れることはできていました。
そんな状態の僕を奮い立たせたのは、やっぱりライバルであったアメリカのブレンダン・ハンセン選手でした。彼はアテネオリンピックの後も世界記録を更新し続けていました。06年夏のパンパシフィック水泳選手権、隣のコースを泳いだ僕は2秒もの大差で負けました。コンマ1秒を争う競技でこの結果です。「北島引退か」といらぬ臆測をされる中で、とにかく練習するしかない。僕にはまだ進化できるという自信がありました。
上り詰めたら次はどうする?
気持ちが入ってからの練習は一層厳しさを増し、さらに、ハードな肉体改造によるひじ、ひざ、腱(けん)などの故障にも苦しみました。そして勝ち取った北京オリンピックでの2種目金メダル、日本人初の連覇。心からうれしかったですし、皆さんの興奮や熱狂もダイレクトに伝わってきました。高い目標を持ち、コーチと共に歯を食いしばって自分を追い込み、水泳人生のゴールに届いた喜びは大きかった。でもこの時点で25歳、選手としては年齢が高くても社会人としてはまだまだという自覚もありました。
さかのぼれば高校生の頃から、漠然とですがスポーツで食べていくにはどうすればいいのか考え始めていました。僕は大学在学中も水泳に明け暮れ、将来も水泳で仕事をしたいという強い思いがあって、アテネオリンピック後、社会人1年生となった22歳の時に飲料メーカーとプロ契約を交わしました。プロ選手として、さらに結果にこだわり、目標に向かって突き進む覚悟ができました。
スポーツ選手は長い時間を費やして練習しますが、現役時代は長くない。だから、水泳を通じて得たものを次にどう活(い)かすべきか、現役を続けながらも頭の片隅では考えていました。(談)