「弱さもさらけ出し、次を考える」
北島 康介が語る仕事--1
本気の大人に出会えた
オリンピックを意識する9歳
スイミングスクールに通い始めたのは幼稚園から。幼い子どもにもきちんと練習をさせるのでサボりたくなる日もあったけれど、水泳は楽しかった。僕は、そこそこ速いが特に突出しているわけでもない、という辺りでしたね。ただ、数字で自分の記録が計れ、練習によって伸びていくのはうれしくて、やったことは自分に返ってくるんだと子ども心に感じていました。
同じスクールに、先輩として憧れていた林享選手が練習に来たことがありました。後に彼は高校生で1992年のバルセロナオリンピックに出場し、惜しくも4位でメダルは逃したのですが、テレビの前で応援しながら「僕も水泳でオリンピックに出る」と意識したのがこの時、9歳の小学生でした。
目標ができてから記録は伸び始めたのですが、小学6年生で全国大会3位が最高。中学生の年齢別では優勝できても、中学生全体大会では予選落ち。そんな悔しさの中で2年生の時に、平井伯昌コーチから本格的な指導を受けられる機会がやってきました。
「オリンピックに出たいか?」。平井コーチにそう聞かれた時は本当に驚きました。でも迷わず「出たい」と答えた瞬間から、桁外れの練習量になり、世界レベルを意識する日々に変わっていきました。プールという日常的に身近な場所から、中学生が「世界」を気持ちに取り込んで人生を進んでいくことになる。目標を明確にすると、こんなにも変わるものかと思いましたね。夢中になって「練習から脱落するまい」と必死になれたのは、世界を目指すコーチや周囲の大人の本気が伝わってきたからです。
僕は元々、相当負けん気が強いんですが、それでも気持ちが折れそうになることは数え切れないほどありました。でも周囲が自分を信じてくれた。それがどれほど若い人の支えになるか、大人は気づいて欲しいですね。
17歳で世界4位、でも悔しい
初めてのオリンピック出場は2000年のシドニー大会でした。国内選考レースで憧れの林選手に勝ち、世界の大舞台へ挑んで100メートル平泳ぎ決勝で4位。よくやったと言われ、僕も精いっぱいの力を出し切ったと思うものの、メダルに届かなかった悔しさは想像以上でした。
この時の平井コーチの言葉もすごかった。「まずは世界新記録を出して、次のアテネオリンピックでは金メダルを狙おう」。これには奮い立ちました。水泳選手のピークは10代後半から20歳前後と言われています。4年後の僕は21歳、金メダルを取ると自分に言い聞かせ、周囲にも言い、生意気だと嘲笑されてもやり切ってみせたかった。
当時のライバルはアメリカのブレンダン・ハンセン選手。アテネオリンピックまでの4年間に、何かの大会で僕が世界新記録を出せば、次のレースで彼がその記録を塗り替える。それをまた僕が更新する。すさまじいデッドヒートはアテネオリンピックまで続き、僕が予選で世界新記録を出すと次の準決勝でハンセン選手が塗り替えた。そして僕は100メートル、200メートル共に金メダルを手にして帰国。もちろんみんな喜んでくれましたが、いらぬ中傷を受ける経験もし、アマチュア競技の選手であっても覚悟が必要だなと感じました。(談)