「俺らしく、真実を考える」
太田 光が語る仕事--3
失敗は、笑われ愛される
人間は未熟でいいじゃないか
23歳でお笑いタレントとしてデビューし、テレビやステージの仕事が一気に増えました。ところが、5、6年ほど経つと潮が引いたように声が掛からなくなった。だから、前座を引き受けもしました。売れている仲間を悔しく眺めながら、何でもやってやろうと思いましたよ。その頃「NHK新人演芸大賞」に出ないかと誘ってもらい、大賞を受賞できたんです。
同時期に「GAHAHAキング 爆笑王決定戦」という番組で10週勝ち抜き、テレビなどへ復帰していくことがかないました。毎週新しいネタを作って勝負するのは本当に苦しかったけど、届く笑いって何かと力を振り絞って考えた。そして、奇をてらうよりもオーソドックスな笑いの方がいいと確信するようになりました。それは、例えばコケたとか、話の途中でかんだとか、勘違いしているとかといった、人間誰もがやってしまう失敗や未熟さに「馬鹿だなあ、でも俺たちと一緒だな」と見ている人が共感する笑いなんです。
それはもう、毎回面白い「あるあるネタ」で飽きさせないよう工夫を尽くします。偉い先生方の中には「日本のお笑いはくだらない。もっと海外のようにシリアスな社会批評で笑わせなきゃ」とおっしゃる人もいます。でも、いっとき留飲を下げるだけの社会風刺や権力批判でニヤリとさせるなんて、的が見えていてそこに球をぶつけるようなもので簡単だもの。そんな技は日本のお笑い芸人なら楽勝ですが、人気がないんです。
例えば黒澤明監督の映画は海外でも評価が高いですが、監督は日本人の観客を心から楽しませようとして作品を撮ったと思う。世界に向けてなんて考えていなかったでしょう。ただ、弱さや強さ、未熟さといった人間の本質の描き方が素晴らしく、国を超えて共感を呼んだ。俺が考えるオーソドックスな芸というのも、根っこは同じです。
「忠臣蔵」をどこから見るか
大好きな落語家の立川談志師匠が、落語は何を目指しているのかを語ったことがあります。例に取ったのはご存じ「忠臣蔵」。藩を潰され、主君のあだを討つ赤穂浪士四十七士の長い苦難と討ち入りを描いた話ですね。談志師匠は「討ち入りを果たした47人を英雄として描く映画やドラマなどが圧倒的に多い。でも落語はね、討ち入りをするのが怖くてたまらず逃げていったような人を描くんだ。『しょうがねえなあ、人間だからなあ』ってね」と。
いくら立派な目標を立ててもくじけることはあるし、はなから戦う力がなければ気後れもする。自分が死んだら家族はどうなるのかとか、好きな相手と別れたくないとか、どんな理由にしろ逃げたい気持ちは分かる。師匠は「そんな人間の業を許すことだよ」と言っていました。お笑いも、「未熟でかっこ悪くたっていいだろ、お前も俺もそんなものだよね」と笑いに変えて許してみせる仕事なのだと思う。
最近、テレビなどの放送では苦情が寄せられがちで、やれることが減っていないかと聞かれます。しかし、むしろ笑いはそういう制約があって面白くなりますね。ほら、お葬式に参列して、笑っちゃいけないところで笑いが止まらなくなったというように、非常識だ、けしからんという空気もかいくぐるのがお笑いの真骨頂なんです。(談)