「選んだ仕事に魂を込める」
吉田 克幸が語る仕事―2
工夫に工夫を重ねるDNA
海外で気づいた物作りの姿勢
20代の後半から30代にかけての1970年代、私はヨーロッパ、そしてニューヨークで暮らしていました。仲間になった多くの若いクリエーターたちと活動する毎日は刺激的で、できれば仕事を見つけアメリカで生きていきたいと考えていましたね。
家業がカバンを製造していることもあって、物作りには関心がありました。かつて好奇心で、バッグを作っているイギリス・バーミンガムの会社を訪れた時に、パイプをくわえたおじいさんと子どもだけで手縫いの作業をしている工房に驚きました。
若手はいないのかと聞くと「いいんだ。俺が死ぬ頃に子どもたちがちょうど一人前になるから。それの繰り返しなんだ」と。つまり手縫いとは、手間が掛かるだけでなく、技術者を育てるのにも時間が掛かるということ。日本に輸入されているヨーロッパの名高いバッグも、よく見れば手縫いです。でも、このレベルなら日本でも絶対に作れる、と思ったものです。
父は「一針入魂」を掲げ、仕事に厳しく、経営も堅実な人でした。一方、物作りに関してはとてもおおらかで、それをやってはダメだとは決して言わない。新しい発想や素材、技術、デザインなどに対していつも意欲的で、先見の明がありました。ヨーロッパの手縫いを日本でと、私がその時思い描いたのも、カバン作りの父のDNAが入っていたからでしょう。
何年も海外で暮らす私に、父は一度も戻ってこいとは言いませんでした。帰国のきっかけとなったのは、ある雪の晩、零下20度のニューヨークで転び、寒さで心臓がバクバクと痛み始めた時、ああ、母や父に会いたいと感じたからです。それほど長く、自由に、私は新しいカルチャーを呼吸し尽くして戻ってきました。
親はいつも本気です
ちょっと生意気な末っ子が、今までにない物を作ろうとする。父はそれを信じてくれました。81年に私が、日本人で初めてニューヨーク・デザイナーズ・コレクティブという世界的著名デザイナー集団のメンバーに選出されることができたのも、そのお陰です。要は「工夫をする」。これを機に日本の企業の方々との仕事も広がり、海外で得た経験や感覚も活(い)きてきた。
その視点から父を見た時に、特にすごいと思ったのは戦争で捕虜になった時の話でした。持っていた軍刀は全て没収され、父たちはみな収容所に入れられる。ところがその軍刀が入っている革のさやが、もうボロボロに傷んでいるので敵の軍人が誰かこれを直せるかと言ったそうです。父は名乗り出て、これを修理するには米から作る接着剤が必要だと米を要求した。用いる米はわずかですが、毎日多めに米を求め、それを知られないように持ち帰っては捕虜仲間を飢えから救ったのです。
「工夫をしなさい。工夫に終わりはない」といつも口にした父は、死ぬか生きるかのギリギリの状態でも工夫で生き抜いていた。どんなに失っても、またゼロから工夫して始めればいい。そのDNAも間違いなく自分の中に感じます。どのような仕事でも本気で取り組んでいた。そんな親が自分をここまで育て社会に出してくれたのです。その仕事への姿勢をしっかりとつかんでおきたいと思いました。(談)