「日本のスタンダードを創る」
重松 理が語る仕事―1
10歳で人生を決めたと思う
豊かさを浴びた衝撃
まだ戦後が色濃い時代に横須賀市逗子(現逗子市)で生まれ育ちました。近くに米軍駐屯地があり、白いフェンス越しにグリーンの芝生や真っ赤な芝刈り機のある住宅が見えた。その頃8歳年上の姉が、将校だけの居留地でベビーシッターのアルバイトを始め、アメリカのファッション雑誌をもらってきたりしていましたが、ある時、家族招待を受けたのです。私は10歳だった。
フェンスの向こうに入ってみると、ガレージには大きなアメ車があり、広い家には巨大な冷蔵庫があって見たこともない飲み物やチーズ、バターが入っている。普段着も格好いい。その豊かさは強烈で、重松少年は、日本にもこういう暮らしをと心に決めた。特にファッションにはとても引かれ、10代からバイトに精を出して米軍の放出品や輸入品などを買い続けました。
この蓄積が無かったら、今の私はいない。どれくらいの数の服を買い、幾ら使ったか思い出すこともできない程ですが、自分のお金と長い時間をつぎ込んで得た「本物」です。勉強嫌いでマイペースな私は興味があることしか見てきませんでしたが、若い人にはそれでいいと伝えたい。自分のアンテナを生かし、体験の引き出しを増やしていくことが仕事を助けます。
たまたま私の場合はアメリカの生活文化に直接触れる機会があって、それが人生でやりたいことを知る引き金になった。社会の常識に染まる前の、夢見る少年・青年時代の直感には、現在のあなたを支える価値観が眠っているのではないでしょうか。ずっと面白くてやめられなかったことは、次の可能性につながりますから、簡単に忘れ去らないで欲しいと思います。
本物にたどり着きたい
洋服、ファッションが私の人生の真ん中に在りました。だから大学を出たら真っすぐに婦人服を手掛けるアパレル業界へ就職をしたのですが、関心は自分が着たい服から離れません。アメリカには格好いい本物があり、多くの人に着て欲しいのに残念で仕方がない。それなら私が選んできて売ることができるはずだと考えて、学校の先輩に相談してある企業に企画提案をし、受け入れてもらいました。
自社で生産して売るメーカーではなく、目利きが商品を探してくるセレクトショップの提案、それはまだ日本では珍しい業態。その当時から日本の雑誌が海外のファッション特集を組んだり、アメリカのショップ記事を掲載したりするようになり、参考にしながら現地で買いつけを始めました。
最終的に頼るのは自分の目と感覚。日本のお客さんに喜んで買ってもらえなくてはビジネスとして立ち行きません。1970年代は日本でもメンズファッションのメーカーが人気を集め、トラディショナルな服が一世を風靡(ふうび)し始めた頃ですが、私は「アメリカ風」と本物のアメリカ製品は同じではないという違和感が強かった。価格は高くても、本物の本物たる格好良さを着こなしてもらいたいと一生懸命でした。
海外でお金に糸目をつけずに買いつけてくる私は、いつ放り出されても文句を言えない立場だったのですが、その会社のトップは全てを任せてじっと見守っていてくれました。本当にありがたく、だからこそ新しい価値を生もうと必死になれたのですね。(談)