「自然のエネルギーを描き残す」
アラン・ウエストが語る仕事―3
どんな組織にも属さない
私は東京・谷中で生きる
日本画の画材に引かれ、初めて来日したのは19歳。2年間滞在してから母国アメリカの大学へ戻り、23歳の時につくば科学万博アメリカ館での仕事を得ました。大学に2度目の休学届を出し、また日本画の画材が買えると胸を躍らせ日本へ。滞在1年、時間を惜しんで画材を探しました。日本中で9軒ほどと教えられた有名店のうち4軒は東京の上野、谷中かいわいにあると知り、必ず谷中で暮らすと、この時心に決めたのです。
帰国して25歳で大学を卒業し、私は日本にやって来ました。そして谷中にほど近い本郷に住み、もっと深く技法や画材の取り扱い方を学ぼうと、東京藝術大学大学院日本画科(加山又造研究室)への入学を目指しました。1回目の試験は不合格、そして2回目に聴講生として入室を許され、ようやく3回目で合格。「これだ」と決めたら、時間が掛かっても諦めないことは本当に大切だと思いますね。
私は絵の中に光を取り入れたいと考えてきました。ギラギラと光るのではなく、まるで遠くから自分に向かって差し込んでくるような、見る角度や明かりの具合によって移り変わって見える繊細で自然な光です。長くその表現方法に苦悶(くもん)してきましたが、金箔(きんぱく)や銀箔を知って目の前が開けました。岩絵の具と同様に使いこなすには難しい技法を用いますが、それらを学ぶために私は日本にたどり着いたのです。
自然の草や木、花や鳥、そして風や空気に満ちているエネルギー。その中に、見る人が迎え入れられて安らぐような美を描きたい。それが私の表現です。箔の技法はもちろん、絵の奥行きを作るびょうぶとの出会いも大きかった。お客さんが私の絵をずっとそばに置き、朝に夕に自然を感じ、自分の心の中を映しながら楽しんでくれたら、これほどうれしいことはありません。
幸運なことに愛する日本女性と結婚し、やがてアトリエにしたい古い物件を谷中に見つけ、私は日本に根を下ろしました。生涯の仕事をするために。
自ら顧客と出会う決意を
日本で絵を描きながら、どうやって食べていくか。その方法を私は必死で考え、画廊や組織の手を借りずに一人でやっていくという決心をしました。画廊などから「受けの良い作品を描いて欲しい」というような制限を受けたくなかった。14歳の頃から注文制作を受けて仕事をしてきた私は、相手の思いをしっかりと受け止めて描くということの大切さを知っていたからです。美術館に飾ってインパクトの強い作品が売れるなんて、そんな依頼は冗談じゃないと思いましたね。
初めは描きためた絵を持って建築会社やホテルなどに営業し、私の絵を直接見てもらいました。ただ、どこの画廊も通さず、いきなり飛び込んでいくわけですからなかなか売れない。営業以外にも展覧会などに出品したり、紹介してもらったりと苦心しました。ありがたいことに注文してくださる方もあり、また、妻も教師の仕事をして支えてくれました。
実は手に入れた谷中の物件は、元は自動車整備工場。そこをアトリエにして、私の作品や絵を描く姿を見てもらえたらと10年掛かりで少しずつ改装しました。諦めたりしません、私が人生を懸けて選んだ仕事ですから。(談)