「自然のエネルギーを描き残す」
アラン・ウエストが語る仕事―2
画材を追って日本へ
父との葛藤を経た美大入学
8歳で画家になることを決め、14歳で舞台背景画の注文を受けて描いていた私は、高校時代も絵に没頭していました。もちろん大学でも美術を学びたかった。しかし、長くその希望を父に伝えられずにいました。息子が熱心に絵を描いていると知ってはいても、職業にしたいと打ち明けた時の父の反対はすさまじいものでした。絵で生涯食べていけるのか、家族を守っていけるのか。それは弁護士という堅実な仕事に就いている父としては当然の不安だったでしょう。けれど、私も引くことはできなかった。
親子の対立を見かね、「チャレンジだけはさせてあげなさい」と仲裁に入ってくれたのは祖母です。ならばと父が出した条件は、米国でトップの美大に合格し教育を受けること。到底息子に合格は無理だと踏んで、最も高いハードルを課したのです。必死にならざるを得ませんでした。試験の課題は50作品の提出。私はそれにデッサン帳も数冊加えて準備し、試験当日父が運転してくれるワゴン車で運び込みました。その時の父の気持ちを考えると今も胸が詰まります。仕事を選び生きていくということは、真剣でなければならないのだと教えられた思いでした。
難関の大学には無事合格できました。しかし入学してみると、西洋美術は人を描けなければ画家ではないという考え方が主流であり、また、新たなインパクトを求めるモダニズムが大学の美術教育を支配していました。私は東洋美術のような花鳥風月を心から美しいと思う異端の学生だったので、教授たちから作品を批判され、強制されることが本当に苦しかった。繰り返し退学を考えたほどです。
そんな中で、ある公募展に自作を出品した際、鑑賞者から「よく分からないけど、日本の技法を用いた絵とよく似ている」と言われて衝撃を受けました。自分が発明した技法だと思っていたのに、日本には昔からあると言う。私は休学届を出し、未知の国「ニッポン」へと向かいました。19歳でした。
美しい岩絵の具は衝撃だった
最初に住んだのは愛媛県の新居浜市です。そして、技法を探し求めるうちに岩絵の具と出会いました。本当に繊細で発色も美しく、色数も豊富です。それを溶かす鹿ニカワも、今まで私が米国で用いていたものと違って臭いも濁りもなく、透明で使いやすい。私が心底欲しかった画材はこれだったと衝撃を受けました。また、私が最も大切に考えている、柔らかな線を自在に描ける和筆にも心を奪われました。
私は自分自身の絵を描くために、最良の画材を求めて10代を長く闘ってきました。日本画を学びたかったわけではなく、求めていた画材が日本にあったのです。画家として、この地で、この画材を用いて表現を極めていくことができる。私の絵に命を吹き込むことができる。それは身震いするほどうれしい出来事でした。
休学は2年間。画材や技法はもちろん、日本語も一生懸命に学びました。大学を卒業するために帰国しましたが、再び日本に戻る機会はずっと模索していました。そして1985年、つくば科学万博アメリカ館での通訳の仕事が飛び込んできたのです。これで日本に行って、もっと画材が買える(笑)。縁は途切れていませんでした。(談)