「どこにでも生きる道はある」
林 英哲が語る仕事―3
道なき道の、匍匐(ほふく)前進
表現の壁を越えたい
32歳で、オーケストラのソリストとして米国のカーネギーホールに招かれたのは、予想を超えた「ごほうび」という感じでした。シリアスな現代音楽作品に和太鼓打ちが独奏者として指名され、音楽家としての扱いを受けるのは全く初めてのことでしたから。
翌年の春には、助演者なしの舞台「千年の寡黙」を上演しました。作曲も演出も振り付けも、もちろん太鼓演奏も全て自分でやるという、本当にたった一人の舞台です。独奏者というからには、自力でサポート奏者なしのコンサートを成立させなければ、一人前のソリストとは言えないと思っていたのですが、最初は怖くて怖くて。でも何とか終えて、皆に「すごく良かった」と言われた時は、これでやっと壁の向こうに抜けたと思えました。いつまでもカーネギーホール・デビューという肩書に頼っていてはいけない、という気負いもあったんだと思います。
シアトリカル(演劇的)な構成で、僕の組曲形式の作品、第一号です。その後、モスクワのチャイコフスキー・コンサートホールや、ベルリン・フィルハーモニーホールでも上演して、「日本の太鼓は来たことがあるがあれはコマーシャル、ハヤシの表現はアートだ」と評されたのは本当にうれしかった。
僕は元々美術家志望だったので、特に独奏は美術の作品を作るような感覚に近いんです。絵の具をまき散らすという作風のジャクソン・ポロックの絵も、音楽とか、深い魂のようにも見えます。カーネギー出演時に美術館でその実物を見たんですが、印刷と違って、本物は圧倒的に美しくて魂を奪われました。こういう独自の方法でも美は表現できる、やはり本物に触れなければ分からない、と思いました。
格闘する姿勢を学ぶ
そういう意味では、東京でソロ活動を始めてから、いろんな表現者の人たちとじかに接することができるようになり、それは本当にありがたかったですね。舞踏家の麿赤兒(まろあかじ)さん、世界的ファッションモデルの山口小夜子さん、デザイナーの山本寛斎さん、ジャズピアニストの山下洋輔さんなどは、僕のソロ最初期から親しくして頂きましたが、表現と闘う姿をすぐそばで見られたのは何よりの勉強でした。
時間はさかのぼりますが、30歳でゲスト盛りだくさんの初コンサートを企画してもらった時、麿さんと小夜子さんにも出演してもらったのですが、ずぶぬれの小夜子さんを背負った麿さんが、僕の大太鼓ソロをバックに踊るというすごいシーンがあったんです。「玄界灘を泳いで来た半島の舞姫」という設定の麿さんの演出で、あの美しい小夜子さんがきれいごとではない動きに本気で取り組んでいる。表現と格闘する人のすごみを感じました。
太鼓でできることはもっとあるはずだ、と思いながら歩んできましたが、それは他の分野で闘うそういう人たちをたくさん見てきたからでもあります。大太鼓を正対して打つ形も僕が始めるまでは誰もやらなかった打ち方で、音色の変化やリズムの鮮明さについて特に海外ではものすごく驚かれます。「こんな太鼓奏法があるとは思わなかった、ドラマを見ているようだ」と。「和太鼓」というくくりで見られる日本とは違う目で評価してもらえるのは、ありがたいことです。(談)