「どこにでも生きる道はある」
林 英哲が語る仕事―2
私は何ものなのだろうか?
個の立ち位置を探す苦しさ
11年間に及ぶ閉じた集団生活から独立し、東京で一人暮らしを始めたのが30歳、それからはどんな仕事でもやりました。商業ビルやレストランの開店イベント、歌手のバック演奏など、太鼓打ちとして生きるために必死。どんな場でも、どんな音楽ジャンルからの誘いでも、全て経験、修行と思ってやりました。社会に初めて出て来て、自分がどこに向かうべきか、どう生きるべきか、全く分からなかったからです。
僕の太鼓は、郷土芸能でも伝統芸能でもない。「お前は何者だ?」と問われたら答えようがなかった。ただ、日本の太鼓を活(い)かして自分一人でできる何かや、これは日本のものだと言える自分なりの新しい表現、それを探して暗中模索の毎日でした。
そんな時期に米カーネギーホールから出演依頼が舞い込んできたのです。それもオーケストラのソリストとして。海外公演は集団時代に毎年行い、ブロードウェーの大舞台でも長期公演をやり、オーケストラ作品も小澤征爾さん指揮のボストン交響楽団と共演してはいましたが、その過去を捨て4畳半一人住まいから出発した当時の僕に、まさか独奏者としての依頼が来るとは夢にも思いませんでした。
たまたま東京の現代音楽コンサートで僕が初演したオーケストラ作品を、来日していた米プロデューサーが見て気に入り、招聘(しょうへい)されたのです。その頃は演奏用の大太鼓なんて持っていなかった。家一軒と言われるほどの高額でしたから。レンタル太鼓を太鼓屋さんに頼みに行くと「カーネギーに初めて日本の太鼓が出るのに、傷だらけの太鼓じゃこっちが恥ずかしい」と、見事な木目の大太鼓を新調してくれました。出世払い、というわけです。
太鼓の運搬費用も足りない。そこで日本航空に頼みに行くと、広報の方が意外にも僕をご存じで「小澤征爾さんとのコンサート、拝聴しました。カーネギー頑張って下さい」ということで、運搬を全面協力してもらえることになった。旧知の友人の声掛けで永六輔さんらが渡航費のカンパもして下さった。まさかと思うようなことが次々と起き、僕は海を渡ることになりました。
世界に通じる表現の可能性
カーネギーホールでの公演「日本の交響曲の夕べ」で演奏したのは、水野修孝さん作曲の「交響的変容 第3部」。100人近い大編成オーケストラで舞台上が満杯になる大曲です。バイオリンのすぐそばに太鼓を置かざるを得ず、コンサートマスターが「この音量は耐えられない」と言い始め、リハーサルでは上演が危ぶまれる場面もあったのですが、自腹で同行してくれた太鼓屋さんが、打面の皮を調整してくれて何とかなりました。
そして迎えた本番では、演奏後、毎回、歓声と共に大スタンディングオベーション。楽団員にはうるさがられた曲が、大成功でした。ソリストの僕の奏法、所作、立ち居振る舞いに至るまで様々な言い方で絶賛され、日本人ならではの演奏表現が高く評価されたのです。世界の音楽の殿堂で、日本の太鼓が「音楽」という扱いを受けたのは初めてだったと思います。集団時代とは違う僕の個の表現が世界に通じた。それは、郷土芸能でも集団演奏でもない太鼓の可能性を模索中だった僕に差した、本当に大きな光でした。(談)