「どこにでも生きる道はある」
林 英哲が語る仕事―1
宇宙人のごとき世間知らず
目指す仕事からの遠回り
一人で絵を描いたり遊んだりすることが好きな子どもでした。実家は古くから続く寺で、僕は8人兄弟の末っ子。中学1年の時に初めて聴いたビートルズのイントロのドラムの音に衝撃を受け、小遣いで教則本とスティックを買い、段ボールを叩(たた)いて練習していました。中学でバンドを組み、高校に入ってドラムのフルセットをやっとの思いで買いそろえるほど好きでしたが、将来の仕事としてはグラフィックデザイナーを目指していたのです。
しかし、美大受験に失敗します。その浪人中に、たまたま太鼓グループを結成しようとしていた集団に機関紙のレイアウトを手伝って欲しいと頼まれ、短期間だけならと応じました。ところがその依頼は口実で、実際は太鼓メンバーへの勧誘だった。僕は興味を持てなかったけれど、あまりにも強引な説得とグループの窮状に接して、どんな経験もやがて美術の仕事に役立つだろうと参加を決めます。合宿訓練の拠点は新潟県の佐渡島でした。
プロの太鼓奏者になるつもりは全くなくて最初は「手伝い」程度の感覚でしたが、驚いたのはメンバー全員が太鼓未経験で、ドラムをやったことのある僕だけがかろうじて音楽経験者。合宿訓練は想像を超えて徐々に厳しくなっていき、太鼓の練習よりもランニングが優先されて毎日50キロ近くになることもあり、テレビやラジオ、新聞は禁止、家族への連絡もほとんど許されず、自由行動も給料もありませんでした。
なぜそんな生活に耐えられたのかと言えば、5年目にやっと海外公演が実現し、それが思い掛けず大きな評価を得ていったからです。それに僕は毎年の欧米公演演目のほぼ全てに出演し、代表曲の太鼓アレンジも奏法も創作していたので責任もありました。中でも、まだ若き小澤征爾さんが音楽監督に就任されて3年目のボストン交響楽団との初共演は、本当に責任が重かった。失敗したら、この演奏会に懸けた小澤さんの汚点になる。この時ついに僕は、いつかは美術家に戻るという腰掛け意識を捨て、太鼓打ちという運命を受け入れる決断をしました。ボストンに向かう長距離バスの中でのことでした。
修業は寺ではなく、社会でせよ
人生は不思議なものです。強引に誘われ、少しだけ手伝いますと19歳で参加した太鼓グループでの活動は11年間にも及びました。社会と隔絶され、太鼓に打ち込み、ひたすら走った日々。様々な確執があって集団が分裂し、佐渡を離れた時、僕は世間知らずのただの30歳の男でした。憧れていた美術家への道はもう遠く、親兄弟のように高野山で修行して僧侶になろうと考えたのですが、日舞の師匠が「誰もできなかった経験をしてきて能力もあるのに、ここでやめてどうする。これからは社会で修行しなさい」と、全身全霊を傾けて諭してくれました。
太鼓の集団生活しか知らない僕が、初めて東京で一人生きる。4畳半のアパートを借り、修行だからと、商業ビルやレストランの開店催事、歌手のバック演奏などどんな仕事も引き受けました。ただ、出演料の銀行振り込みも知らなかった。給料をもらったことがないので口座そのものを知らず、まるで宇宙人(笑)。電車には乗れるし日本語も分かるけれど、日常会話に苦労する30歳、必死の日々でした。(談)