「人生は切り開く価値がある」
伊藤 真が語る仕事----1
13歳が垣間見た異文化
中学生の胸に刻まれた体験
私は自ら設立した「伊藤塾」で27年間、法律家や行政官などを育成する法教育を仕事としています。東京の下町生まれ、父は教育者、祖父は大工の棟梁(とうりょう)でした。子どもの頃は見事なやんちゃ坊主で、祖父の仕事道具を持ち出しては近所の生け垣を切るようないたずらをし、親は近隣から怒られてばかりいたようです。手に負えないと幼稚園は三つ転園。小学校で埼玉県に移り、学校の鼓笛隊に入ったり、自転車の正しい乗り方の大会で思いがけず県で3位になったりして少し自信も生まれました。
ところが中学生になってすぐ、父がヨーロッパ初の日本人学校の校長としてドイツに赴任します。1970年代初頭、まだ1ドルが360円の時代でした。初めて乗った飛行機の窓から眼下を眺めていた時のことです。もうオランダからドイツに入る国境線が見えるはずだと思い込んでいたら、目を凝らしてもただ森がずーっと続いているだけで、世界地図で表されている国境線がありません。国境や国は人為的な区切りなのだと思い至りました。
放課後の地域サークルには、アラブ系の人や、中国人を始め私のようなアジア人もいて差別を受けることもいじめもありました。また、日常でもクラス(階級)が厳密に存在すると知って衝撃を受けました。日本で習ったフランス革命の「自由・平等・博愛」は、憲法に「平等」と明記しなければならないヨーロッパ社会の現実があったからだと、これは後になって気づきます。こうして2年半の海外生活で多様な国籍や境遇の人々と交流するうちに、人は誰もそれぞれなのだと強く感じたのです。
戦争の影を感じる経験もしました。住んでいたデュッセルドルフから電車で5時間ほどのベルリンを訪れた時、東ベルリンに少し足を踏み入れたのですが、東西を区切る高いベルリンの壁の先は本当に生気のない灰色の街に見えました。時代はまだ東西冷戦まっただ中、戦争は同じ国の中で家族を引き裂くのです。日本では考えられない現実でした。
周囲の誰もが優れて見えた
帰国が決まり、私は1人で家族より先にドイツを出て、15歳でギリシャ、カイロ、カトマンズなどを巡りながら帰ってきました。危険を感じることもありましたが、まだまだ怖いもの知らずの元気な子どもだったと思います。
しかし、日本に戻ってみると成績はあまり振るわない。先生に勉強の方法を習って成績は上がり高校受験に臨みますが、この頃から周囲にどう見られるか、期待に応えられなかったら嫌だなといった感情にとらわれるようになっていきました。それでも進学校に受かり、海外生活で日本が大好きな愛国少年になっていた私は、弓道に打ち込みます。でも人前で弓を引くプレッシャーで失敗するなど、うまくいかない自分をグズグズと引きずっていましたね。
大学には合格したものの、周囲は明確な将来の目標を持つ、できる学生ばかりです。理系人間だった私が進路変更して目指したのは外交官。明治期の陸奥宗光のように外交交渉などのシビアな仕事で闘うイメージでしたが、先輩から「交渉ではなく接待ばかりの仕事だ」と聞き、一気に熱が冷めてしまいました。そして仕事決めのモヤモヤ期に突入したのです。(談)