「試練はくぐろう、必ず次がある」
服部 匡志が語る仕事―1
長かった10代のトンネル
いじめ、父の死、迷う日々
小学校高学年でかなりつらいいじめに遭っていました。それでも「今日は体育の授業がある」「明日はソフトボールの試合がある」と自分自身で楽しみを見つけ、学校に通いました。いじめは理不尽なものです。僕が何一つ悪いことをしていなくても、学級会があると犯人扱いされる。仲間外れにされる恐怖心が働くのか、僕に味方する級友はいませんでした。
それどころか、担任の先生も一緒になって僕を標的にし、家庭訪問の時、母に「服部くんが病欠すると、クラスも平和ですわ」と言い放つほど。その時のつらさが身に染みているので、僕には「弱きを助ける」という気持ちが育まれていったのかも知れません。中学校に進学して勉強を頑張り、学年で1、2番の成績になると状況が一変します。いじめに遭っても怖いと思わなくなり、生徒会長までやれるようになりました。当時はよく分かっていませんでしたが、勉強とか、スポーツとか、何か一つでも強みを持っていれば周囲と向き合えるのではないでしょうか。
やがて父の体にがんが見つかったのは、僕が中学3年の時でした。父は囲碁が好きで、僕は碁会所に通い、見舞いに行って父に「今日はこんな手を打った」と伝えると、少しずつ強くなっていく僕の話を聞きながら、父が教えてくれた大切な戦略がありました。それは「攻めるのではなく、相手の出方を臨機応変に受け止めよ」。どう出てくるか、幾つも想像し備えておけと。
この教えは人生の支えになりましたね。「こうでなければならない」と思うと、そうならないことは不満に思えてしまう。でも柔軟に構えていれば、どんな球が来ても取ることができる。周囲が声高に押す常識に、振り回されなくてもいいんだと胸に刻みました。
医学部受験で何と4浪
父が他界したのは僕が高2の年でした。進路の相談も、これから社会で遭遇するであろう悩みも聞いてもらうことはできない。父が最後に残してくれたのは、リポート用紙に記した遺書。「お母ちゃんを大切にしろ。人に負けるな。努力しろ。人のために生きろ」
父が入院中のことですが、ある日、僕は病棟で医師と看護師の会話をふと耳にします。「82号室のあのクランケ(患者)は文句ばかり言って本当にうるさいやつだ。どうせもう先が長くないのに」と。父を治療してくれる神のような存在だと思っていた医者が、僕の父親をさげすんだのです。人間不信に陥り、1カ月近く不登校となり、北海道まで家出しました。良い進学校に入学して順調な僕でしたが、復学後は、成績はボロボロで何を目指していいかも分からない日々。やがて高3となり、進路を決めなければならない時、あの時の悔しさと怒りから「患者さんの痛みが分かり、最高の技術を持った医者になろう」と決心しました。でも成績は赤点ばかりで、全く医学部に行ける状況ではありませんでした。
予備校に行き、毎日猛勉強しました。そして2浪目には、予備校の先生から京大の医学部を勧められるほどの成績になりましたが、志望校は阪大の医学部でしたので、毎年阪大を受験し、落ちまくって、ついに4浪。挫折感でいっぱいでした。くじける僕を土壇場で支えたのは、母の激励と「人のために生きろ」という父の言葉でした。(談)