「試練はくぐろう、必ず次がある」
服部 匡志が語る仕事―2
悲観するな、何とかなる
僕は何を目指すのか
紆余曲折(うよきょくせつ)、4浪して京都府立医科大学に入学。卒業後の専門分野は、消化器外科(胃がんのエキスパート)になると決めていました。やはり亡き父への思いが強かった。
大学6回生になると各科の専門医局説明会が開催され、うまい物を食べながら勧誘されます。ある時、親友から「昨日の脳外科のしゃぶしゃぶ、むっちゃうまかったで」と言われ、僕は大好きなウィンドサーフィンに没頭していて情報が入らず、「今日は何かないんか?」と尋ね、「眼科の焼き肉ですわ」と誘われて出掛けていきました。当時の僕は、目を細かく検査する顕微鏡をのぞくのが苦手で、絶対に眼科に行くことはないと思い、講義や臨床実習も縁がないとさぼっていました。
こうしてたまたま「焼き肉」を食べに行ったことで、生涯の恩師となる眼科の木下茂先生と出会いました。医師としては珍しい長髪、柔和な表情で「君どうや、眼科は?」と問い掛けられた。僕は「どうもあの雰囲気が苦手で」などとあれこれ理由をつけてはぐらかしていましたが、それから1カ月ほどして「ビールでも飲まへんか」と誘われ、3時間くらい腹を割って話しました。
「変わっていることはええことや」「君が来て変えてくれたらええやないか」「休みも好きなだけ取ればいい」など、とにかく僕の言うことを否定することなく、懐が深い。「世界を目指してやっていこう」という先生の言葉がなぜか深く心に残り、人としての大きな魅力を感じて、この先生に自分の人生をかけてみようと決めたのです。これが産婦人科なら、きっと産婦人科医になっていたでしょう(笑)。
封建的な医者の世界にあって、木下先生は命令、強要をすることなく、必ず「君はどうしたいんや」と耳を傾けてくれました。「誰でも言われたことはする。でも、言われないことをするやつは少ない。服部はいらんことをする。ええ格好をする。おもろいやっちゃ」、そう言って僕を認めてくれた。人と違っていいんだと初めて実感した日々でした。消化器外科を目指して医師になったのに、絶対に行かないと思っていた眼科へ。人生は不思議なもので、大きな転換点になりました。
医師としての原点
やがて大学での研修が終わり、角膜専門の木下先生から「お前は網膜を勉強しろ」と言われ、当時、網膜の治療や手術が進んでいた阪大の関連病院で研修をすることになります。真野富也先生の元で勉強させて頂いたのですが、ここで「患者さんのことを第一に考えろ」という信念をたたき込まれました。真野先生の助手に就くことで、手技を盗み、勉強したことをノートに書き込み、お昼ご飯を食べるのも惜しんで網膜手術の助手をし、医療技術を貪欲(どんよく)に吸収していった。そうして頑張っていると少しずつ執刀の機会が増え、僕の技量も徐々に上がっていきました。そして先生は「患者さんには何の罪もない。だから無理なことは絶対にするな」と。これが患者さんを第一に考える医療なのか。医療の根本を教えられ、素晴らしい恩師に恵まれました。
それから、もっと網膜を勉強したいと網膜手術で有名な九州の病院で、まるで武者修行のように実績と研鑽(けんさん)を積み、指導医師として活躍していましたが、嵐が突然やってきました。(談)