「試練はくぐろう、必ず次がある」
服部 匡志が語る仕事―3
不遇でこそ人は成長する
人生は波瀾(はらん)万丈だ
医師になって5年目、僕は大学病院のラインからはみ出し、熊本市の網膜硝子体(しょうしたい)手術専門の眼科病院に職を得ました。出田秀尚院長は僕の腕を信頼し、次々と手術を任せてくれた。その後、久留米市の聖マリア病院へ移りますが、ここは網膜硝子体手術を九州で一番多く行っている病院で、九州全域から患者さんが集まってきました。福岡大学の関連病院にもかかわらず、大塩善幸眼科部長が僕のために特別枠を作って下さり、迎え入れてくれました。大塩先生は内視鏡手術のスペシャリスト。内視鏡手術を夢中で学び、数多く手掛け、近隣の病院や眼科の医師の指導医としても活躍していました。
目の前が開け充実した日々を送っていた僕ですが、ある日突然、大学の恩師木下茂先生から、浜松市の眼科病院へ行って欲しいと頼まれます。そこには朝7時から診療し、夜中の12時まで手術をする怪物のような海谷忠良先生がいて、厳しさでその名をとどろかせる病院で、絶対に他の人に執刀させないことでも有名でした。木下先生からの要請を2度断ると、最後通告で縁を切るとまで言われ、恩師と縁を切るわけにはいかないと、最終的に大塩先生を裏切る形となりましたが、土下座して謝り、浜松に行くことにしました。
海谷眼科は総合病院から独立して開業したてで、1日400〜500人の患者さんが押し寄せ、僕の仕事は移ってきた患者さんのカルテ作成の日々となりました。どの患者さんも待ち時間が長く、僕が診察室に入ると「どうして海谷先生ではないんだ」と不満げでしたが、そうした患者さんが帰る時、服部先生に診てもらえて良かったと思えるように努力しました。
ただ、手術室に入っても執刀する機会はなく、九州では毎日執刀し活(い)き活きと仕事をしていたので、理想と百八十度反対の状況に、本当に打ちのめされました。何度も辞めたいと思いましたが、恩師からの依頼であり、そんな自分が情けなくもありました。海谷先生も医師として仁徳のある素晴らしい先生でしたので、ここで石にしがみついてでも3年間は頑張ろうと腹をくくり、考え方を転換させました。頭から「自分が執刀する」という意識を捨て、患者さんから「服部先生に診てもらいたい」と慕われるように、外来や病棟の仕事に一生懸命取り組んだのです。
そして1年半経ったある日、網膜剥離(はくり)の緊急手術があり、海谷先生が執刀し、副院長が不在のため僕が助手となります。でも海谷先生に急用ができて途中で抜け出さなければならなくなり、僕に初めて執刀のチャンスが巡ってきました。手術ができなかった長い間も、僕は左手で食事をする、糸で布を縫うといった地道な努力を続けていて、そのお陰で手術は無事に成功。それからは少しずつ手術をさせてもらえ、やがて2年目には網膜の手術をほとんど任されるまでになりました。
運命のベトナム行き
激しい浮き沈みをくぐって僕はやっと充実した医師としての生活を手にし、近くの浜名湖で趣味のウィンドサーフィンを楽しむ日々となります。ところが、2001年に京都で開催された日本臨床眼科学会でベトナム人医師と出会い、「多くの人が失明している。何とか助けてほしい」と言われ、心が大きく揺らぐことになるのです。(談)