「試練はくぐろう、必ず次がある」
服部 匡志が語る仕事―4
心を大きく感謝を忘れず
医師には使命がある
「ベトナムでは多くの人が失明している」という言葉が頭から離れませんでした。生活は安定していても、この声を無視したら自分の心が死んでしまう。しかし、無職となり収入源を失うのはとても不安です。半年間悩んだ末、情熱と極めてきた技術があれば人生は何とかなる、ベトナムに行ってみようと思い立ちました。家族の大反対を3カ月間だけという約束で説得し、恩師の木下茂先生も背中を押してくれた。
初めて訪れたベトナム国立眼科病院の惨状は目を覆うものでした。待合室にも廊下にも身動きできないほど患者さんがあふれ返っている。治療を受けられなかったが故に、失明の危機にさらされている重症患者が圧倒的に多くいました。ベトナムに赴くや否や、診療・手術の毎日。設備も器具も古く、薬も足りず、日本でなら助かるのに助けられない。いったん日本に帰国し、いろいろな所に援助を求めても、冷たいもので貸し出しする機械はないと言われ、揶揄(やゆ)する人さえいました。僕は家族を何とか説得し、マンションの頭金としてためていた数百万円で必要な医療機器などを購入。ベトナムに持ち込むことで、多くの人々を失明から助けることができるようになりました。
ところが患者さんは一向に途絶えず、あっという間に3カ月が経ちます。このまま彼らを見捨てることはできない。こうなったらとことんやろうとボランティアでの手術を続けることにしました。やがて、先立つものが少なくなり、月の半分は日本で働き、残りの半月はベトナムで手術をすることに。
ただ、日本では学閥などがあり、肩書もない僕は、研修医師のアルバイト先となっているコンタクトレンズ店の横にある眼科でのバイトしかありません。収入は激減しましたが、そこで得た報酬をベトナムにつぎ込みました。お金がない人には手術費用を立て替えることも。膨大な数の難易度の高い手術を行うと共に、高度な技術をベトナムの若手医師らに惜しみなく教えました。やがて日本でもフリーの医師として認められ、手術の仕事を次々に頼まれるようになり、今では出張手術の日々です。家にはほとんど帰れない生活を続け、15年になります。まだまだ貧困で失明している人々を助けたい。
人を変えるにはまず自分から
アウェーでの活動は風習も文化も違い、コミュニケーションがうまくとれず、よく誤解されました。日本で当たり前のことが現地では全く通じない。ある6歳の重篤な患者に、日本では用いられている特殊な物質を使った超難易度の高い手術をした時には、「前例がない、危険だ」とバッシングを受け、「服部に手術をさせるな」という事態に陥ったこともありました。でもその少年は失明を免れ、僕への評価もまた変化していった。アウェーで僕は医師というプライドを捨て、ゴミ拾いから手術の準備まで何でも独りでやりました。そうしているうちに「服部は本当にベトナム人のために頑張っている」ということが行動を通して肌で感じてもらえ、現地のスタッフらが自発的に協力してくれるようになりました。
後ろ向きな発想からはいいものは生まれません。自分の信念を信じ、どんな状況下でも努力し、感謝を忘れずに生きていけば、苦しみや困難からきっと抜け出せます。今まで出会った全ての人たちに、そして今の状況に僕は感謝している。ありがとう。(談)