「その好奇心に力は潜んでいる」
丸 幸弘が語る仕事―1
学ぶ意味を知らなかった
高校ではビリから3番目
幼稚園から小学3年生までシンガポールで過ごしました。インド、中国、イギリス、マレーシア、日本など様々な国の子どもが一緒になって学び、遊び、持参のランチを食べる。宿題がどっさりあって大変でしたが、授業では課題をもとに討論をし、自分で考えて意見を言う。それが僕にはとても楽しかった。
しかし、日本に戻ると同じ給食、同じ体操着。授業も教科書を写したり、先生の話をじっと聞いたりするだけ。シンガポールでの自由活発な毎日とは逆に閉じ込められたような気持ちでした。小学生らしく生き物や科学は好きでしたが、中学高校になると勉強に全く興味を失い、授業は苦痛、自宅で机に向かった記憶もほとんどありません。ただひたすら仲間と「面白いことしようぜ」と遊んでいるばかりでした。
友人が、バイクは部品を組み立てれば走ると言うので、何人かで部品を集め回り、分厚い専門書にかじりついてパーツ一つひとつを組み立てていったんです。長い時間をかけ、ついにエンジンが音を立てて近くの農道を走った、あの爆発するような感動は忘れられません。楽しかった僕の「ヤンキー時代」です。
かつて日本の小学校で書かされた将来の夢では、医者も弁護士も総理大臣もピンとこず、「偉い人になる」としか答えられない。一つの職業に規定したらそれ以外は何もできないんじゃないかと、中高生時代も気持ちは決まりません。大学受験が近づいても、模試の偏差値は30台、成績はビリから3番目、数学は毎回0点で授業中は寝ている(笑)。何だか袋小路で時間だけが過ぎていくようでした。でも一人の先生が僕を変えてくれます。それは、僕が授業で寝てばかりいた数学の担当教諭でした。
「両方やればいいんだ」
ある日、僕は先生に呼び出されます。「俺の授業が嫌いなのも数学が嫌いなのもいい。でも俺はお前を嫌いじゃない」。そして、見せたいものがあるとチケットを一枚手渡されましたが、それは先生の絵の個展だったんです。
「俺は画家になりたかった。もちろん教師も好きだ。でも今も描くことはやめられないし、画家になる夢も捨てていない」。夢を持つことは面白いぞ、やるべきこともやりたいことも、どっちもやればいいじゃないかと、本当の自分の姿を見せてくれたのです。尊敬の気持ちが湧き、それが勉強へのきっかけになっていきました。
しかしどん底の成績の上、学びたい目標もない。就職に有利だろうと安易に考え、理系の大学を10校ほど受けて全滅。自分の甘さにショックを受けましたが、予備校でまた大きな転機がありました。発生生物学の授業の時です。先生が「精子と卵子が受精し、細胞分裂して、やがて人間の体が出来上がる」と説明した後、「そう教科書には書いてある。だが、なぜこうなるのか本当はほとんど分かっていない」と言ったのです。僕の驚きは大きかった。不思議じゃないですか。分かっていない事実が多くあるのに、人間は毎日泣いたり笑ったりしながら、この生命をつないでいくのです。その本質を知りたくてたまらなくなりますよね。
こうして前へ進んでみたら、「学問」の素晴らしい世界があったのです。(談)