「手渡されたチャンスを糧に」
齊藤 太一が語る仕事--1
15歳、植物や造園と出会う
仕事にファンが生まれる喜び
岩手県の広大な小岩井農場の近くで生まれ育ちました。体格が良かったせいか、中学3年の頃に、園芸店を営む親戚から頼まれて土を運ぶ力仕事を手伝ったことがあります。役に立ったようで高校入学後からアルバイトに入り、森に行ってチェーンソーで十何㍍もある木を切り倒し、水圧ジェット噴射機で皮を剥いでログハウス用の丸太を作るなんていうハードな作業もこなしていました。
その一方、店頭では僕が作った寄せ植えや苔玉(こけだま)が人気となってよく売れ、店の一角に個人のコーナーを与えられます。やがて気に掛けてくれるファンが生まれ、「うちの庭の相談をしたい」というお客さんまでいらしてくださるように。やってみたいけれどまだ高校生です。慌てて名刺を作ってもらい、20歳ということにしてとにかく仕事を受けました。
もちろん全くの未経験。考えた末に石のある庭を造ろうと決めますが、大きな石がどこで手に入るのかも知りません。それで、山かなと当てもなく奥まで入ると採掘場があった。「よしっ」と近づくと、ちょうどその付近でダイナマイトが爆発しました。ケガは全くしませんでしたが怒られるのなんの。現場の人も心底驚いたようでした。そこは墓石を採る採掘場で、3メールほどの石をスライスし、ゴツゴツした外側はいらないという。僕はそれを庭に立てたらきれいだろうなと思い、訳を話してタダでもらい受けました。
お客さんに庭造りを依頼されたから、その要望に応えた。僕にとってはシンプルな行動でしたが、喜んでもらえた充実感は15歳の少年にとって初めて味わう仕事の手応えでした。
世界的建築家の底力を知る
やがて少しずつ庭造りが評判になり、僕に任せたいというお客さんもあって造園の面白さに夢中になりました。高校生ながら収入は桁違いに増え、授業中でも教科書の陰に隠れて庭の図面を描く毎日。成績は目に見えて落ち、まさかの留年が決まりました。昨日までの仲間が上級生になり、僕はまた高校1年生なのです。もう手に職があるのだから退学しても食べていけると諭す大人もいましたが、僕は学校にとどまりました。
そんなある日、僕は米国の建築家フランク・ロイド・ライトの写真集で彼の造った「落水荘」の写真に衝撃を受けたんです。自然な滝を生かしたまま、その上に素晴らしい住宅が建っている。どうすればこんな発想ができるのか、こんな技術がかなうのか。建物と自然の融合は、自分が知っているような「家があって庭がある」というパターンだけではないんだ。それは自分が井の中のかわずである無知をはっきりと分からせてくれるようなショックでした。
僕は何も知らない子どもで、ただ地元で少しうまくいっていただけだと気づいてから、気持ちが全く変わっていきました。建築はもちろんのこと、世の中には学ぶべきことがすさまじく多いのだと、お尻に火がついたような飢餓感を持ちました。留年するような馬鹿な僕がなんとか生き延びていくには、自分で必要だと感じる全てを学ぶしかない。師匠もなく、目標とする人もなく、ただ直感で僕はアンテナを広げ知識を得ていったのです。(談)