「いつも、なぜと問い続けよう」
堀 潤が語る仕事--4
僕らは市民記者になれる
伝えられず放送局を去った
鍛えられた初任地のNHK岡山放送局から、新しい報道番組が始まる東京へ送り出してもらい次のスタートを切りました。夜9時から放送のニュース番組で、「自由にやってみろ」と背中を押してくれる先輩たちに支えられ、リポーターとして現場へ向かって行きました。
社会問題への地道な取材に加え、地震や竜巻などの自然災害が起こる度にその現地へも必ず足を運びました。深夜にかかってくる電話に対応するため、当時は毎晩携帯電話を握りしめて眠りました。伝えるべきは被災地の姿。途絶えたライフライン、傷ついた人々、足りない救援物資など、一瞬にして無残に壊れてしまった生活実態を届けなくてはと、ニュースの持つ責任を感じていました。一方、災害地から送られてくるSNSの情報も重要さを増してきていました。
そして2011年3月11日、東日本大震災。被害規模は想像を超え、連日の報道も膨大な量でした。僕は震災前の09年冬に、NHKアナウンサー堀潤の本名でSNSの個人アカウントを取得し、双方向性の重要さを説得して局の許可も得ていたので、震災直後から被災地の人々と情報交換を続けていました。
忘れられない電話があります。3月11日の深夜、僕の携帯電話に「覚えていますか?」と新潟県の女性から連絡が入りました。「原発の状況は発表されている以上に深刻だと電力関係者から連絡がありました。退避も必要だと。これをNHKでも伝えて欲しい」という内容でした。かつて新潟県中越沖地震で取材した原発関連企業の関係者でした。しかし混乱の中、裏取りもできずしっかりと伝えることができませんでした。そして後に福島市内で市民の方にこう言われました。「知ってることがあったのならしっかりと伝えて欲しかったです。あの日私は外で長い時間、子どもの手を握って給水車の列に並んでいたので」と。責任を今も感じています。
こんなことでいいのだろうか。僕は考え続け、やがてNHKを辞めるという結論を出したのです。
個人の情報を社会に活(い)かそう
退職直後は社宅を出て家もなく、友人宅の屋根裏部屋で暮らし、コインランドリーに通い、ラーメン屋で原稿を書いていました。でも晴れ晴れとした自由な気持ちでした。SNSを駆使して原稿を書き、退職前に立ち上げていた市民投稿型サイト「8bitNews」を運営しながら、これでやりたい世界へ進めるとうれしかったし、応援してくれる人、知恵を貸してくれる人らが次々と現れて本当にありがたかった。この助け合う力こそ社会のセーフティーネットだと感じました。
そして一人ひとりが情報を交換する大切さも、メディアの仕事を続けてきて痛感しています。介護の大変さ、保育園不足、過疎地や災害地の問題などの投稿も届いたりします。海外の公共放送では市民が持ち込んだ動画を放送する「パブリックアクセス」という権利が認められている国もあり、専門のチャンネルが開設されていて、それは僕の夢の一つです。
自分の思いと違う仕事環境でも、多くの体験をすることでやりたいことが明確になってきます。焦らず、お互いに全力で走りましょう。(談)