「いつも、なぜと問い続けよう」
堀 潤が語る仕事--3
尊敬できる先輩を追え
組織には本気のプロが必ずいる
社会に出るなら誰かの役に立つ仕事を、と目指したのはメディアの業界。世の中には多くのメディアが存在していて、中には納得できない偏りや画一的だと思える報道もありました。しかし時代はデジタル放送が始まる前夜。双方向でのやり取りに可能性を感じ、まず放送局に入ってみたいと考えたのです。
アナウンサーとしてNHKに入局後、最初の任地は岡山放送局。新人も本番経験を積むためにと夕方のニュースを読み、未熟な僕は1分間も早く読み終えてしまうなど数え切れない失敗の山を築きました。その一方で、リポーターとして県内のあちこちの現場に送り込まれ、取材、撮影、編集、プレゼンなど全てを一人でこなす機会を得ていきます。ローカル局だからこそ、アナウンサーといえども面白いネタで企画書を出し、少人数でも頑張り通すという方針でした。
数年間のこの経験で、報道人としての技術や現場感覚を徹底的に鍛えられました。そんな中で、山間地域や離島などでは病院が無くなり、バス路線が廃止になり、田畑が荒れていたりすることにぼうぜんとしました。都会暮らしでは実感できなかった過疎の現実です。そういう土地を取材して歩くと、住民から涙ながらに感謝されることも多かった。「地域にこそ日本の問題がある」。頻繁に取材しながら、この現実を伝えていくことがNHKにいる僕に課せられた使命だと強く思いました。
この決心がぶれなかったのは、大相撲の実況アナウンサーである上司がいたからです。その当時、いつも同僚たちがランチに出て昼時間が過ぎても戻らないので内心苦々しく感じていたんです。上司は僕のいら立ちに気づいていて、「お前は手を抜くなよ」ときっちり言ってくれました。「日々きちんとリサーチしているからこそ、いざという時の放送に耐えられるんだ。お前には俺が持っているスポーツ実況のノウハウをしっかり教えてやる」と。本気で仕事をする人の覚悟に触れた思いがしました。
信じたことはやり続けよ
こうして毎日現地へ飛び出し、アナウンサーの仕事と並行して取材に明け暮れていました。それを周囲は見てくれていたんですね。東京で新しい報道番組が立ち上がるという時、岡山局を挙げての「堀をあそこに送れ」の大推薦で、僕は上京しました。最年少でニュース番組への起用だったのです。
でも、実はその新部署で全く相手にされませんでした。その人たちからすれば生意気でチャラチャラした若造だったのか、まるで仕事を任せてもらえません。岡山局ではリポート力を買ってもらいましたが、ここでは若いアナウンサーに何ができるんだという空気だったのです。
置き去りにされた孤独感で身動きできない日が続く中、僕はまた素晴らしい3人の先輩に救われました。新しい報道番組を成功させるために集められたNHKのすご腕メンバーです。「この番組で一番弱い立場はお前だ。でも、何かあったら俺たちが必ず守ってやるから自由にやれ」と。やっぱり仕事は覚悟だ、と腹をくくりました。(談)