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高校野球 連なる思い~第1回大会を振り返る

1915年に産声を上げた全国中等学校優勝野球大会。戦争による中断を乗り越え2018年の第100回大会を迎えます。第1回大会を振り返ります。

高校野球 連なる思い~第1回大会を振り返る

1915(大正4)年8月18日午前8時半。全国中等学校優勝野球大会が、広島中(現国泰寺)と鳥取中(現鳥取西)の試合で幕を開けた。

一回表、マウンドに上がった鳥取中の鹿田一郎さんは、「観客は1千人前後でしょうか。野球をやって悔いなし。感謝です」とインタビューで語った(72年発行、NHK録音集 熱戦甲子園)。荒れ地を切り開いたグラウンドは、縄につるした幕が外野のフェンス代わり。第1号本塁打はランニング本塁打で、広島中の4番中村隆元さんが放った。88年、朝日新聞の取材に「本塁を駆け抜けて球の行方を見たとき、あちらの外野手はまだ、ひざまで埋まるほどの草むらで球を探しとりました」と語った。

第1回全国中等学校優勝野球大会の始球式でボールを投げる村山龍平・朝日新聞社社長(右端)=1915年8月18日、大阪・豊中グラウンド

野球に情熱を傾ける人たちの強い思いが、大会を生み出した。

開催の4カ月前。京都二中(現鳥羽)OBの高山義三さん(元京都市長)と小西作太郎さん(元日本高校野球連盟顧問)が「今年の二中は強い。これならどこにも負けん。近県の中学を集めた大会をやろうや」「面白そうやな」と話し、親しい朝日新聞記者に掛け合ったという。

関西中等大会の世話役だった早大の佐伯達夫さん(元日本高野連会長)も全国規模の大会開催を願い、旧制三高野球部長だった中沢良夫さん(同)らは朝日新聞の村山龍平社長に、野球を正しく育てるために全国大会を開くべきだと伝えた。豊中グラウンドを所有していた箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)も、有効活用策として全国大会開催を模索していた。

11(明治44)年当時、野球人気が過熱し応援団の対立や不祥事などが起こり、世間では野球を非難する声が高まった。朝日新聞は野球撲滅の趣旨ととれる野球害毒論を唱えた。それから4年。教育的見地から野球の有用性を唱える考えを理解した村山社長が開催を決断した。

大会は京都二中が秋田中(現秋田)を破り、優勝旗を手にした。京都二中の三塁手として戦後初の第28回大会(46年)に出場した黒田脩さん(85)は、第1回に出場したメンバーに指導を受けた。「私たちは第1回の優勝校として常に見られてきた。誇りに思う」 (2015年1月3日付本紙から)

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