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足跡をたどる
生まれ育ち、絶筆を残した東京 0-49歳(1867-1916)※熊本、松山、倫敦に住んでいた期間を除く
東京をよく散歩した漱石はどんな思いで町を見つめたのか。想像しながら、特に縁の深い新宿区を歩いてみた。
地下鉄早稲田駅の2番出口を出て、夏目坂を上る左手前に「誕生之地」の石碑が立つ。漱石の生家があった。今は定食チェーンがある。住宅街を約10分歩いた先の漱石公園は終焉(しゅうえん)の地。漱石の胸像が入り口で迎えてくれる。千駄木の「猫の家」などを経て、40歳で移り住み、「それから」「門」などを発表し、「明暗」は絶筆となった。「漱石山房」と呼ばれた。
早稲田通りを東に進むと、老舗や洋風の飲食店などで町がにぎわう。漱石が幼い頃、買い物らしい買い物は大抵ここまで出る例になっていたという神楽坂だ。「それから」の代助が近くに住んだ藁店(わらだな)(藁坂)にはかつて寄席があり、落語好きの漱石はよく通った。坂のそばの文房具屋「相馬屋」も愛用したようで、原稿の印税を細かく書き留めた罫紙(けいし)の複写が飾ってある。漱石の几帳面(きちょうめん)な性格がうかがえて興味深い。
「三四郎」で熊本から上京した主人公は、近代化で変わる東京が「大変な動き方」だと驚く。町並みの急激な変化は今も同じだろう。当時の面影が残る場所は少ないが、登場人物に寄り添い歩くことで、漱石の見た東京が確かに浮かび上がってくる。
「坊っちゃん」が息づく松山 28歳(1895)
「坊っちゃん」の舞台とされる松山市。松山城が立つ城山を中心に広がる街の路面にはレトロな雰囲気の「坊っちゃん列車」が走り、「坊っちゃん団子」はお土産の定番。街には「坊っちゃん」があふれている。
1895(明治28)年、漱石は愛媛県尋常中学校(現・松山東高校)に英語教師として赴任した。坊っちゃんの主人公も「四国辺のある中学校」に赴任した設定だ。
ただし、物語にでてくるまちの評価は散々だ。坊っちゃんは、赤ふんどしを締めた船頭を見て「野蛮」と悪態をつき、ぼんやりとした小僧には「気のきかぬ田舎者」と吐き捨てる。地元の人たちは気を悪くしていないのだろうか。
「松山の人は包容力があるから、『言わせておけ』という感じだったのでしょう」。漱石の教え子らが発足させた「松山坊っちゃん会」の武内哲志会長(64)は、そう説明する。「むしろ全国的に有名にしてもらって市民は喜んでいると思います」
一方、木造でどっしりとした道後温泉本館は気に入っていたようだ。友人への手紙で「道後温泉は余程立派なる建物にて(中略)随分結好に御座候」と絶賛していた。
漱石の松山暮らしは1年ほど。だが、正岡子規と50日余り同居して本格的に俳句を作り、高浜虚子らとも親交を深めるなど、人生に大きな影響を与えた。
漱石の自筆原稿に詳しい愛媛大の佐藤栄作教授(58)によると、漱石は熊本に移ってからも、子規に度々俳句を添削してもらっていたようだ。また、坊っちゃんの原稿には漱石と違う筆跡があり、掲載されたホトトギスを編集していた虚子が、文章の松山弁を手直ししたとみられている。「漱石の作家としての素質を引き出したのは子規と虚子。漱石自身も、お礼として『坊っちゃん』を書いたのではないか」
俳句に夢中になった熊本 29-33歳(1896-1900)
熊本で結婚して父となった漱石の足跡が、今も地元の誇りだ。旧制五高(現・熊本大)の教師として赴任、4年3カ月を過ごした。その時期、全体の約4割にあたる約1千句の俳句を詠んだ。
漱石は1896(明治29)年4月13日、熊本市西区の池田停車場(現JR上熊本駅)へ降り立った。当時29歳。赴任時に通ったという駅からの道の途中には、クスノキが並ぶ「漱石記念緑道」がある。先へ進むと道路脇には、「新坂」と書かれた案内板。その説明は漱石について「熊本の町並みを眺望し、その緑の多いのに驚いて『森の都だな』と言った……」。「森の都」は、熊本市歌でも歌われる愛称になった。
この坂を下った先に、現存するのが内坪井旧居(熊本市中央区)。漱石は熊本で転居を繰り返したが、この家で最も長い1年8カ月を過ごした。現存する旧居で、内部が当時と同じ場所で公開されている全国でも貴重な場所だ。
この旧居では、寺田寅彦ら五高生から見た「漱石先生」がパネルで紹介されている。「寒そうに正座している先生は何となく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった」……。厳格なだけでなく、教え子の求めに応じて朝の課外、夏休みは補習と、熱心に教育に取り組んだ。
結婚、鏡子夫人の入水事件、長女誕生と、豊富なエピソードを生んだ熊本時代は、俳句に熱中した時期でもあった。研究者らでつくる熊本近代文学研究会は今年、熊本時代の全句に注釈と句意を付ける取り組みに乗り出し、漱石が残した句に新たに光をあてようとしている。
来年は漱石が熊本に来て120年。ファンでつくる「くまもと漱石倶楽部」は6月から、「熊本の漱石」を学び直す講座を始めた。県外から訪れる人により詳しく解説できるようになるのが目的。同倶楽部の和田正隆会長は意気込む。「漱石は、熊本に住んだという誇りや『知的遺産』を残してくれた。全国に向けて多くの人たちに『熊本の漱石』を発信しなければ」(奥正光)
個人主義に目覚めたロンドン 33-35歳(1900-1902)
漱石が英国に留学したのは1900(明治33)年、ビクトリア時代末期で栄華を極めていた時期であった。
漱石はロンドン留学中に5回も下宿を替えており、
3番目を除き、建物は当時のままである。地下鉄は既に市内を網羅しており、漱石は「無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多(めった)な交通機関を利用しようとすると、どこへ連れて行かれるか分からない」(倫敦塔)と述べている。
市内の街灯やベンチ、建物の上に注意して散策すると、漱石が見た彫刻や景色があちこちに残っている。カーライル博物館やダリッチ美術館の訪問者名簿には、漱石の足跡を記したK.Natsumeの署名を見ることができる。
最後の下宿近くには、漱石が妻や友人に手紙を投函(とうかん)したであろう五角形の当時の郵便ポストがあり、漱石の息づかいが今にも聞こえてきそうである。
ロンドン漱石記念館は84年に、下宿の真向かいに開館した。館内には留学当時の市内の古い写真や、下宿、観劇のプログラム、それに個人教授を受けたクレイグ先生、カーライル博物館で漱石を案内したストロング夫人、下宿のリール姉妹などの写真や資料を展示してある。(同記念館は16年に閉館)
「倫敦に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり」(文学論)と書いているが、漱石はロンドンで悩み苦悩していたとき、「自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てた」(私の個人主義)と感じた。それは「自己本位」の目覚めであった。
漱石は留学の大きな成果である「個人主義」の考えをしっかりと右手に握りしめ帰国したのである。(ロンドン漱石記念館館長・恒松郁生)
※2015年9月30日付別刷り特集から