長野県出身。高校までは野球一筋。しかも、自転車通学という限られたエリアでの生活から一転、大学入学で大都会で暮らし、サークルやアルバイトなどいろんな経験をしたことをきっかけに、より広い世界を舞台に仕事をしていきたいと思ったという。
第6章 熱くなれ(下)
「『ゆるさ』から見えてきたもの」
甲子園目指して野球一筋から一転、大学ではゼミの勉強にサークル、アルバイトといろんなことに精を出した。
高校生の時は自宅から学校まで自転車でわずか15分、試合の遠征も部のマイクロバスでの移動で、電車の乗り継ぎの仕方も分からなかった。それが、東京での生活で、さまざまな経験を積むことによって社会人になるいい準備になった。
入ったサークルは「BCP」という。「ボールキャッチプリキュア」。女の子向けテレビアニメ「ハートキャッチプリキュア」をもじった名前から連想される通り、「ゆるい」集まりだった。ボールといっても野球サークルではない。野球は高校でやり切った感があった。で、「キャッチボールサークル」。ところがキャッチボールをやるというよりは、東京六大学野球の試合を見に行ったり、観戦ツアーを組んで応援する仲間を外部から募ったりするなど、いわば野球好きが集まって、わいわい好きなことをやるのが活動と言えば活動だった。
例えば、真夏の一夜に、地元長野県松本市が20万人の人出でにぎわう「松本ぼんぼん」という祭りがあるが、そこにBCPの仲間を呼んで、地元の友人も一緒になって参加し、踊りながら路上を練り歩くようなイベントを企画した。遊びと言えば遊びだが、高校時代には学べないことを覚えた。それは、人を誘うということがいかに難しいかということ。高校の野球部なら勝ちたい、野球をやりたいという気持ちで一つになれた。苦しいことがあっても監督に厳しいことを言われても、逃げ出すことはない。だが、自由意思で寄り合うサークル仲間は、単純に人とつながりたいという軽い気持ちでやって来る。そんな学生たちに、やってみると面白いとか参加した時のメリットや魅力はこうなんだよと伝えるのは、そう簡単ではないということが分かった。
みんなで作り上げる喜び
さらに、そうしたイベントなどで、まわりに仕事を割り振ることも大変なことだと感じた。自分で全部やってしまう方が楽に決まっている。最初のころはそうしていた。しかし、軽い気持ちで参加している全員の満足感につながることを考えた場合、手間がかかっても少しずつ仕事を分担し、みんなでイベントを作り上げた、成功させたと思ってもらうことが大切だと気づいた。企業に入れば組織で取り組む仕事は必ずある。その点で、将来につながるいい経験となった。
授業のサポートなど学内でのアルバイトも勉強になったが、居酒屋で働いたことも役立った。忙しい営業時間の合間をぬって、仕事のノウハウを同じバイトの先輩から聞き出さなくては仕事をいつまでたっても覚えられない。お客さんでにぎわっている間は聞くに聞けない状況のなか、質問をコンパクトにまとめることや、教えてほしいことを聞くと同時に自分の考えもまとめ、セットでコミュニケーションを取る能力を身につけられた気がする。
では、野球に青春をかけたあの情熱はどこかにしまい込んでしまったのだろうか。就活の面接でも自分の持ち味としてアピールした「熱さ」のことだ。それは、ゼミに向けられていた。都市政策をテーマにしたゼミで、大学のキャンパスがある豊島区とコラボして東日本大震災の被災者の物産展を開いたり、大学近くの商店街をどう盛り上げるかを地元の人たちと話し合ったりするなど、いろんな人との出会いに刺激を受け、自らのエネルギーを注いだ。卒論はなかったが、こうした取り組みの延長線上として、ある金融機関が主催した論文コンテストに応募。地域経済をテーマに「日本頑健化計画」という論文を友人と書き上げ、4位になった。
影響を受けた出会い
一つの目標にまっしぐらだった野球部生活から、いわば180度違う生活や体験に転換できたのも、失敗を恐れなくなったのが大きいと思う。みんなと試行錯誤をしながら、小さいことであっても何かを作り上げる達成感が心地よかった。そうやってひと皮むけることができた背景には、小学生の時、手弁当で土日に付きっきりで野球を教えてくれたリトルリーグの監督の影響があるかもしれない。
当時は叱られると怖くて、内容も分からなかった。でも、大人になった今は、「そういうことだったのか」と納得することも多く、その教えが自分の中にも染みついていることに気がついた。「指示を受けたら、言われたことだけをやるのではなくて、先のことも考えて行動しなさい」などと言われたことは、その一つだ。
全員に投手から外野手まで、さまざまなポジションを経験させるのも監督の方針だった。どんな子どもに、どんな可能性があるかだれも分からない、だったら失敗しても負けても構わない。可能性を出来るだけ広げてあげたいという気持ちからそうしたのだと思う。
高校時代の野球部の友だち2人にも頭が下がる。ともに医学部を目指していたが、現役時代の成績は自分よりもよくなかった。それでも医者になりたいという2人の決意は固かった。申し合わせたかのように二浪の末、それぞれ北陸地方と九州地方の国立大医学部に入った。決して器用ではなかったが、情熱を持って一つのことをやり遂げる姿勢は、浪人中に器用に立ち回ろうとして医学部をあきらめた自分には、まぶしく見えた。その2人のことは、就活中にも何度も思い出した。
次は自分の番だ。愚直でもいいから熱い心を持って、一つの仕事をぜひまっとうしたいと思う。
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