静岡県出身。海外旅行にグルメ、スポーツなど好奇心は人一倍旺盛で、小さな体で休む間もなくあちこちへ駆け回る「活動派」。一見、おとなしそうな感じがするため、「ギャップがある」とよく言われるという。
第7章 伝えるという仕事(中)
「現場志向」
朝日新聞社のインターンシップを経験したのをきっかけに、デジタルメディア事業や美術展、スポーツイベントなどの企画などマスコミのビジネス部門に面白さを感じ、大学3年の終わりから本格化した就活では、それをメーンにスタートさせた。もし、ダメだったら、小学校または幼稚園の先生の道という進路も想定していた。
それは、マスコミ以外のメーカーや金融など一般企業よりも、これから大きく育っていく子どもたちに教えること、つまり、おとなになるために大切なことを「伝えていく」ことも、とても魅力的な仕事に違いないと考えていたから。両親がともに教師だということと、大学で勉強したことが影響している。
父親は中学校と小学校で教えている。管理職になってもいい年齢なのだが、それよりも教室で子どもに接しているのが好きらしい。そんな現場へのこだわりが強いようだ。母親は最近、特別支援学級で知的障害や精神面に発達障害のある子どもに寄り添っている。そんな2人の様子を小さい時から見てきて、心のどこかにあこがれる部分もあった。
卒業した文教育学部というのは、教員養成の学部ではなく、教育学や社会学、心理学などを学ぶところだ。実際のところ、教育学を専攻した同窓生18人のうち、教員になったのは3~4人。自分もそこでは、どのような方法で教育をすればどのような成果が現れるのかといったテーマで勉強した。
例えば、英語をマスターするためには小さい時から英語に親しむのがよいとされているが、母国語をしっかり話せたり書けたりしないと、両方の言語をあやつれるバイリンガルになったように見えて、実はコミュニケーションがうまく取れない問題が起きる事例をみた。また、学歴格差を生む背景について、家に本がたくさんあるとかニュース番組をよく見るなどの家庭環境が大きな要素になっていることも知った。
教育現場も選択肢に
4年間、こうした勉強を積み重ねることで、単に教科書の中身を教えるのではなく、人格形成などトータルな教育という意味で現場に立ってみたいという思いもわいてきた。両親から特に教師を薦められたわけでもなく、また、朝日新聞社の内定が決まってからではあったが、教育実習もこなして教員免許を取得した。
というわけで、教師になることも頭の片隅に置きながらの就活だったが、決して順調ではなかった。人気テレビ番組「ためしてガッテン」のアルバイトをしていたNHKも一、二を争う志望先だったが、途中で落とされ、地元静岡県内のテレビ局のうち2局もうまくいかず、自信を失うこともしばしば。そんな中で、最後まで進んだ一つが朝日新聞だった。しかし、ドキドキの連続だった。
2人の面接官を相手にした1次面接。入社したらやってみたい業務としてデジタル営業を挙げ、エントリーシートにも書いた今後のデジタルの可能性をアピールするなど、割とてきぱきと答えられた最後に、「紙の新聞を若者に売るにはどうしたらいい?」と聞かれ、デジタルのことばかり考えてきたせいか、しどろもどろに。接触率をあげるといった話をしたと記憶しているが、よく覚えていないくらい、頭が真っ白になった。その時の面接官には入社が決まった後、偶然再会し、「1次面接ではあなたが一番よかったよ」と声をかけられたのだが。
本人的には命拾いをしたと思った5対1の2次面接で、「最後に何か言いたいことは?」と聞かれ、1次のリベンジをと、紙の新聞の売る方策を4つほど挙げた。消臭剤代わりに香りをつけることや、若者には新聞を広げること自体が恥ずかしく思えるので雑誌ほどの大きさにすることなどを説明すると、うなずいてもらえた。この時は多分うまくいったと手応えを感じられたのだが、最終面接の後、もうひと山があった。
面接の翌日、同じように朝日新聞を受けた知り合いの学生と連絡を取ると、すでに面接のあったその日のうちに内々定の電話が会社から来たというのだ。自分にはまだない。知り合いの話を聞いた瞬間、受かった学生は全員、面接日に通知がいったに違いないと思い込んでしまった。会社からは「5日以内に結果をお知らせする」と言われていたにもかかわらず……。あまりのショックに夜7時には寝込んでしまったほどだった。
そうしたら、8時ごろ、電話が鳴った。「うちへ来ていただきたいのですが」。「はいっ」と答えながら、号泣していた。受話器の向こうの社員に「大丈夫?」と心配されるほどだった。インターンシップに参加した会社だからこその愛着が、気持ちをここまで高ぶらせたのかもしれない。インターンシップで知り合って朝日新聞を一緒に受けたものの、入れなかった友人もいた。励まし励まされながらの就活だった。
地元放送局の最終面接
ただし、就活はこれで終わったわけではなかった。その後も企画部門でエントリーしていた地元放送局の最終面接があった。
その7分間の最初に、朝日新聞の内々定をもらっていることを正直に話した。それに対して、対面から聞こえてきた言葉は「それだったら朝日新聞に行ったほうがよいのでは」。
「偉そうかもしれないけど、それでもうちにと言って欲しかった」。事業の規模が小さい放送局であっても、大手マスコミのネームバリューに対抗するぐらいの気概と、一緒に働いていい企画を作ろうという熱意を自分に示してもらえたら、正直な話、どちらに行こうか迷ったと思う。
大手企業の中で「伝えたい」と思える仕事ができるまで、どのくらい時間がかかるのか分からない。それよりも、小さな会社であっても、その分、視聴者や市民との距離が近く、例えば企画展などをやれば 現場での反応がはっきりと伝わってくるような仕事の方が自分らしく生きていけるかもしれない。それが地元静岡ならなおさらだ。そんなことを考えていた。
けれども、放送局側からは、在京のマスコミに対する引け目が透けてみえただけだった。面接は2分で終わった。
これで自分の落ち着く先は決まった。ただ、全国紙と地元放送局という非対称な2社を最後に比べることになった心理には、ときどき自分に自信がなくなることも関係しているのかもしれない。次回は、そんなことも含めた自己分析を。
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