「仕事は自ら作っていける」
古舘 理沙が語る仕事--2
好きが高じ、知恵が湧く
一人手探りで興行師の道へ
大学時代に、惹(ひ)かれていた西洋古典をもっと研究したいと大学院を目指しますが失敗。就職活動に出遅れ、半年の営業職を経て雑誌社の編集の職を得ました。担当2冊目のビジネス雑誌は、厳しい競争世界の記事制作です。そんな中で初めて誘われた落語の寄席にとても癒やされたのです。やがて寄席通いに給料の半分をつぎ込んでいました。
転職して仕事は続けていましたが、私はこのままずっと会社勤務というより、自分の生涯を懸ける仕事を自分の手でやってみたかった。でも何があるかと考えても、頭に浮かぶのは落語のことばかりでした(笑)。
転機は29歳です。落語は大好きですが、私は演者として人前に出ることが好きなわけではありません。では、どういう形で関わればいいか。それなら落語会の主催はどうかと考え、ある落語会の主催者さんに「私を雇ってもらえませんか?」とメールをしました。ところが「一人でできる仕事ですからご自分でやってみては?」という返事。人を雇うほどゆとりのある仕事ではないと後々分かるのですが、この時は、まず始めればいいんだと心を決め、会社を辞めました。
そして寄席の池袋演芸場でアルバイトをしながら、「寄席演芸興行 いたちや」を創業。やりたいことだけは決まっていました。今まで客として多くの会場に行き、多数の落語家さんの話を聞いてきたので、「この会場であの落語家さんの公演を」というイメージはすっかり出来上がっている。
また、編集やイベント業務の勤務経験があったので、カメラマンやデザイナーの知り合いがいましたし、印刷はどう頼めばいいのかといったノウハウもあったんですね。そういう今までの経験を総動員して、落語のために働く。いよいよだと意気に感じてのスタートでした。
収入の柱としたのは「いたちや」主催の公演会です。お目当ての落語家さんに手紙を書いたり、出演している落語会を調べ、出待ちをして出演交渉をしたりと、とにかく必死でした。
本気は伝わり、信頼される
落語の世界は基本的に信用の世界です。女性一人で興行師というのは、良くも悪くも目立ち苦労もしましたが、寄席でバイトをしていること、それから会社を辞めて興行一本で続けていることなどから、「これは本気らしい」と思って頂けたようです。誰々師匠の会をやっていると話せば、「そうか」と信頼してくださる。一度中に入っていけたら、つながりで仕事が回るという世界でもありました。
お願いした落語家さんが引き受けてくださったら、会場を押さえ、チラシやチケットをデザインして印刷し、プレイガイドへ販売を依頼。そして宣伝も精いっぱいやります。当日の公演の仕切りや終了後の雑務も私の仕事で、つまり演者として本番に出ること以外は全部ですね(笑)。
創業1年目の2010年は準備に追われ、いよいよ大きな公演を立ち上げた翌11年の3月11日、東日本大震災が発生。私の仕事もいきなり綱渡り状態になっていきました。そのお話は次回に。(談)