「きっと仕事で活かされる」
三島 有紀子が語る仕事―3
映画監督職を選ぶ一本道
私には、映像ではなく映画だ
ディレクターとして入局したNHKは、新人でも企画が通ればその本人に撮らせてくれる職場で、私はひたすら数多くの企画を書いては出し、ドキュメンタリー45分の長尺映像デビューを果たせました。2年目には小学生と見知らぬおばあさんの文通を追った「配達された幸せ」という作品を「NHKスペシャル」で撮り、その後も多くの映像制作を手掛けました。
NHKで得たものに「なぜ、今なのかを必ず問え」という大切な教えがあります。元々映画志望の私は、普遍的な人間のテーマをと企画会議で主張していましたが、「放送を通して、なぜ今の人たちに見せる必要があるのか」と毎回切り返され、その視点は現在に活きています。今生きている自分が同時代の人たちの求めるものや空気を感じ取ること、どこへ向かって行きたいのか深く思いをはせることの重要さです。
それでもテレビジャーナリズムの真っただ中で映像制作を体験しながら、私は100年先の人にも届くような映画作りを諦められませんでした。このままでは死んでも死にきれない、組織のテーマじゃなく自分のテーマを撮るんだと。そしてテレビ現場で仕事を続けて10年、コツコツためた二百数十万円と退職金30万円だけを手に、助監督から映画監督を目指す、映画のための「自立」をします。この時、どんなに貧乏しても劇映画につながらない仕事やお金のためだけのアルバイトはしないという決心をしていました。
組織を辞める時、皆さんに感謝の意を伝え、私は自分なりの「けじめ」をつけました。仕事をすれば合わない相手は必ずいますが、自分を見下し続けたヤカラには「辛(つら)かった」と真正面から伝え、自分の力不足で泣きたいほど悔しかった仕事にはリベンジを誓いました。人は負の清算を済ませれば次へ進めるものです。そして私は、ある映画監督の墓前に手を合わせ、「映画をやりたいので、もし良かったら入れてください」と一人宣言したのでした。
ボロボロの脚本を抱いて
受け入れてくれる撮影現場があって助監督になりますが、最初は30歳を超えているのに右も左も分からず、ただふがいない日々でした。企画や脚本をいくら書いても、読んでもらうことさえかなわないのは当たり前。何本も書いては、いつも持ち歩いて機会をうかがっていましたが、受け取ってもらってもその脚本がゴミ箱に捨てられていたということが何回もありました。面白くなかったのかも知れません(笑)。
うつうつとした助監督時代はボクシングジムに通い、吐きそうになるほどやりきれない思いをたたきつけて、何とか生きていました。そんな時、あるプロデューサーが「最初から映画デビューは難しいよ、テレビドラマでもいいか」と声を掛けてくださって、二つ返事で撮らせてもらいました。
その作品で、私はテレビ局から呼び出されるくらい映画っぽい撮り方をしてしまったのです。頭を下げに行き、何とか放映に至りました。でもそのお陰で「この人は映画が撮れる」と思ってくれた方々がいて、声を掛けられ始め、そこからやっと私の映画制作への道がつながっていったのです。様々な仕事の選び方があるのに、私はどうしても映画でなければならなかった。その強い理由を次回お話ししたいと思います。(談)