「きっと仕事で活かされる」
三島 有紀子が語る仕事―1
引かれるままに進もうよ
4歳、映画『赤い靴』の衝撃
家の近所の名画座で、父に手を引かれて初めて見た映画が、アンデルセンの童話を原作にしたイギリス映画『赤い靴』でした。若いバレリーナが作曲家との恋とバレエの間で迷い、苦しみ、命を断ってしまう物語。私はまだ4歳でしたが、その映像の美しさと、主人公が自殺してしまうという衝撃が大きく、ぼうぜんとしてしまいました。
さらに、見終わってから父が「選べないことってあるよな」と一言だけつぶやいたのです。幼い頃の記憶は、何かが心に深く刺さったこの日だけが鮮明で、前後の年月のことはほとんど覚えていません。
少女時代はバレエを習い、レッスン後は父とそのまま週一の映画館通い。チャプリン、トリュフォー、スピルバーグ、デビッド・リーンなどの作品を始め、何年間にもわたってどれだけの数を見たことでしょうか。小さい頃から、監督というものが映画の世界観を作っているんだと分かっていたので、作品パンフレットのある場所に通い詰めました。高くてとても買えないので監督のインタビューを立ち読みするのが目的。怪しい小学生としてお巡りさんからマークされたこともあるほどです。
やがて通った高校では、6カ月も掛けて文化祭の舞台を作るといううれしい校風があって、授業中も目を輝かせて脚本を書いていたと通知票に記されています(笑)。自分自身が役者として舞台に立つことには何の興味もありませんが、物語を紡ぐためなら何でもやりたい、という自分のひそかな思いに駆り立てられていたんですね。その高校ではもう一つ、今につながる気づきがありました。
先輩が見せてくれた必死
それは体育祭の時のこと。応援合戦に参加したのですが、本当にみんなで力を出し切ったのに優勝できず、悔しくて大泣きしていたら、後ろで大笑いする先輩がいる。その人が「一生懸命頑張ったからって報われるわけちゃうやん」と言ったのです。
その先輩は、大学受験で滑り止めを受ける金銭的余裕はないから国公立大学のみ受験ということでした。落ちたら高卒として社会に出る。努力の結果がどうなろうと、とにかくやってみる「必死のパッチや」と。私の地元大阪では、この言葉は崖っぷちの頑張りというニュアンスなんです。ダメで元々、それでも精いっぱいやってみないことには次がないという状況で使います。
なぜかこの話がストンと腑(ふ)に落ちました。人は人、自分の目標は自分で仕切る。映画監督なんて、余程の運と才能がある特別な人がなるのだろうとは思う。無謀な単なる夢だとも思う。それでもやってみたいという自分を封じ込めるわけにはいかないし、答えはまず行動してからでないと出ないのだと、覚悟を受け取った気持ちでした。
大学では、自主映画を作るために企画や脚本を書き続け、塾の講師、エレベーターガール、試験監視員などのアルバイトでためた自己資金で制作を続けました。その頃、ドキュメンタリー作品で海外に行きたいと思う企画があって、どこかで資金を出してくれないだろうかと考え、NHKに持って行きました。どこに持ち込めばいいかつてもないので、アポ無しで受付に行くという必死のパッチ(笑)。ここから不思議な展開で、NHKへの就職につながります。(談)