「先人あっての、わが音楽ですね」
細野 晴臣が語る仕事--2
成功の苦しさも知る
YMOブレークはつらかった
僕が幾つかのバンドを経てプロとして活動していた1970年代後半、世界の音楽シーンにはシンセサイザーやコンピューターを採り入れた演奏が登場していました。その新しさに僕はすごく興味を持った。そして音楽仲間の高橋幸宏と坂本龍一を引き込んで、国籍不明のアジアのバンドを目指し海外から活動を始めます。それがイエロー・マジック・オーケストラ、YMOです。
音楽を作ることが何よりも好きな僕たちは、出来上がった曲をギターやドラムなどの従来の楽器とシンセサイザーで演奏するのが本当に面白かった。世の中がコンピューターへの関心を一気に高めていたこともあり、YMOは時代の寵児(ちょうじ)になっていきました。
ただ当時、僕らのような音楽バンドの接点はほとんどファンが中心だったのに、YMOは広告やアート、イベントなど様々なカルチャーの渦に巻き込まれていった。一つのバンドが持ち曲でブレークしたのとは異なる、社会現象にまで広がる大ブレークでした。そうなると自分の意思が全く通用しないという、逆に自分たちが素材とされる世界に入ってしまうのです。
こんな息苦しい状態は、きっと長くは続かないだろうと何年か我慢することにしましたが、YMOにはいろんな影響力があるのだなと痛感する出来事も数多くありました。予想していませんでしたが、「ライディーン」という曲が小学校の運動会で使われた。大人を意識して作ったのに、小学生が僕らのファンということも驚きですが、通りを歩いていると小学生たちが後ろからつけ狙ってくるんです(笑)。
アンチYMOも多く、擦れ違う女性からあからさまに嫌な態度をとられたこともありました。メディアでどう持ち上げられようが、僕はそういう生身の人たちの対応にとても傷ついたんです。仕方がない、しばらくの辛抱だと自分に言い聞かせ、求められるままにYMOであり続けた数年間でした。
透明になりたい
仕事でブレークを願う。それは自然な気持ちだと思います。ただ、成功した時に押し寄せるエネルギーはプラスと共にマイナスもあることを知らなければならなかった。それを嫌というほど経験した僕は、ずっと、映画『ハリー・ポッター』に出てくる隠れみの、つまり透明人間になれるコートが欲しいと思っていたほどです。それくらい疲れ切ってしまいました。
出来れば3年ぐらいで解散したかったのですが、6年間ほど掛かりましたね。やがてYMOから解放されて、僕は他のアーティストへの楽曲提供やプロデュース、CMなどを多く手掛けます。抑えていた曲のアイデアがあふれ、それを表現して喜んでもらえることがうれしかったですね。
ただ僕はポップスが好きなのに、バブル崩壊に向かう90年代になると、好きだった昔のポップスが騒がしいと感じられるようになった。今そんなことをやっている場合じゃないといった気持ちが押し寄せてくるんです。自分の中で何かをリセットしなければいけないと感じ始めました。音楽を商業主義として扱う風潮とは距離を置く気持ちが芽生える感覚でした。
表現に関わる人間とは、そういう時代の背景と共鳴していく存在なのかも知れません。(談)