「先人あっての、わが音楽ですね」
細野 晴臣が語る仕事--1
分かれ道では棒を投げて
人生の足場は音楽
母方の祖父がピアノの調律師でした。よく遊びに行きましたが、家の廊下の突き当たりに仕事部屋があって、奥にはベートーベンの像が置いてある。子ども心にはちょっと怖い場所だったけれど、祖父は昼間そこでずっと調律の仕事をしていましたね。
小さい時から楽器が好きだった僕は、もちろんその仕事に興味があったし、祖父を尊敬していました。高校生の頃かな、調律師になりたいと言ったら「やめた方がいい。これからはオシロスコープ(波形測定器)でやることがメインになるから、こんな技術は要らなくなる」と皮肉を込めた答えが返ってきた。自分の耳に取って代わって、機械の時代になるんだという悲しさが伝わってきましたね。
調律師は諦めたけれど、音楽はいつも僕の人生の真ん中にあって、早くから幾つかバンドを組み、22歳でプロデビューをします。それからおよそ1年後に、また新たなバンドを組んでアルバムが知られるようになった。僕はベースギターを弾いていたので、これを続ける限りは、趣味じゃなくて仕事ってことだなと漠然と思っていました。いいアルバムが出来、バンドの名前も知られるようになってから3年後、僕はソロ活動に移ります。音楽の分野はとても広いから、面白そうならいろいろやってみたくなる。演奏もするし、他のアーティストのプロデュースも手伝いたくなる。音楽に関わる様々を僕は体験したかったようです。
そんな中から、シンセサイザーとコンピューターを演奏に採り入れる音楽にも興味を引かれていきました。世界にはあって、日本にはない。これで何が出来るんだろうかと。
プロセスは歩いてもいい
当時の僕は、まだスタジオミュージシャンの仕事もしていました。電話で呼ばれてスタジオへ行き、その場で演奏すれば結構いいギャラがもらえる立場でした。でもその頃、思いつきでシンセサイザーとコンピューターを駆使したYMOというテクノミュージックのバンドを考え、仲間として高橋幸宏と坂本龍一を引き込んだのです。坂本君は嫌々でした(笑)。コンピューターと一緒にやる音楽って何をするの?というメディアに答えるのも疲れるほど、何の実績もない分野なんです。
レコード会社は、もう少し続けて成果を見たいと言う。僕の周りのミュージシャンには、コンピューターと演奏することにすごく抵抗を感じる人が多くて、テクノをやっているのは僕たち3人だけという悲観的な状況でした。そんな中でYMOの活動の責任は僕に委ねられてしまったのです。
しかしこの時、僕は過換気症候群という、呼吸が苦しくなる症状が出ていて、病院に行かずに治したいと思って出会ったのがヨガ、そして仏教の修行でした。友人に誘われて行った京都の寺で呼吸法などを習い、症状が緩和していく手応えもあって、寺の千年以上続く行に参加したくなった。進む道はYMOか、京都での修行か。迷った揚げ句、僕は黒澤明監督の映画『用心棒』に倣って、分かれ道に来たら棒を投げる心境になりました。つまりどちらになっても、きっと持てる力を使って自分らしくやると分かっていたから。それなら責任を果たす意味でYMOでいこうと覚悟したのです。(談)