「動き始めてから、考えよう」
山田 拓が語る仕事--1
レールに乗らなくても
自分の本音に耳を澄ます
大学は工学部でしたが、脳細胞より筋細胞を駆使する学生だった僕は、4年間ラクロスに熱中していました。当時はまだマイナーなスポーツだったこともあって、自分のチームでプレーする以外にもラクロスの協会などで幾つかの役割を担い、いかにジャパンチームを強くするかといったことも含めて、学生なのに見よう見まねで組織マネジメントをやらざるを得なかった。とてもいい経験でしたけれど、学校の勉強をする時間はなくなっていきました(笑)。
造船会社のエンジニアだった父親から「理系で学べ」と言われて育ちましたが、大学ではまだ社会人になるイメージが湧かず、ひとまず大学院に潜り込みました。研究テーマは「寿命設計」。例えばスマホのプリント基板が何万回のオンオフで壊れるか、壊れなくするには材質をどうすればいいか、といった研究分野です。しかし、その耐久性を画期的に2倍まで高めても、ユーザーは僕の仕事とは知らないわけで、何か物足りないだろうなと想像していました。
やがて大学院の同期が成績上位から次々とピカピカのメーカーに就職していく中で、下位の僕は希望通りにいきません。それなら工学部だからと進路を研究などに限定せず、もっとお客さんのリアクションが見える仕事をしよう。イエスでもノーでもいいからダイレクトに反応が返ってくる仕事はないかと模索し、海外での仕事にもチャレンジしてみたかった僕は、結局外資系のコンサルティング会社に就職しました。
なぜ学んだ専門と違うのかと驚かれましたが、これが自分に正直な選択でした。振り返ればこの時を始めとして、僕はその後も職種ではなく、自分の居場所を探して動いてきています。その理由は、大学時代に、自分らしく生きる人たちに出会ったからでした。
狭かった僕の常識が変わった
雪のシーズン、北海道ニセコ町のスキー場で大学1、2年生時に住み込みのアルバイトをしていました。2年目は居酒屋に住み込んでいたのですが、その経営者は、普通のサラリーマン家庭に育った僕が今まで付き合ったことのない人種でした。彼は、大阪で不動産業に従事していた時期に体を壊し、北海道に湯治に訪れて移り住んだ。そして、湯治宿を経営するようになり、やがてニセコに転じて居酒屋を始めたという人でした。
大変なことが数知れずあったかも知れない。でも彼は毎日とても楽しそうだったのです。当時の僕と言えば、大学を何とか卒業して就職し、長くその企業で勤めることが当たり前だと考える学生でした。でもその時の出会いが、「進学してサラリーマンになる以外の選択肢もある」と知ったターニングポイントになった。更に、自然環境に対するサスティナビリティー(持続可能性)を意識したきっかけもニセコでした。この地の降雪量が年々減っていくのは、地球環境や温暖化が要因ではないか、自分に何ができるか、やはりそれがこれからの課題として胸に刻まれましたね。
学校や社会が後押ししている仕事へのレールは、確かに存在しているでしょう。でも、それに乗らない生き方もまた、考えていいと思います。(談)