「生きがいを追い続ける」
熊谷 和徳が語る仕事--2
踊って文化を伝える使命
アフリカ系アメリカ人史と共に
「いつか本場のアメリカでタップダンスを学びたい」。その希望を抱いて、まず大学留学を選び、19歳でニューヨークへ旅立ちました。初めは郊外の語学学校で一人寮生活。英語もほとんど話せず、携帯電話やインターネットのない時代でタップスクールなどの情報もなく、電車で1時間かけてマンハッタンへ通い、とにかく自分の足で求めるものを探しました。不思議と不安よりもワクワク感がいつも勝っていて、目に見えるもの全てが新鮮でした。
ちょうど僕がニューヨークに来た1990年代半ばは、ヒップホップなど新しいアートのムーブメントが起きていて、タップにおいてもまさに新しいスタイルが確立されるタイミングでした。ブロードウェーでは「ブリング・イン・ダ・ノイズ、ブリング・イン・ダ・ファンク」という、アフリカ系アメリカ人の歴史をタップをメインにして物語るショーがスタートしました。約1年後、僕はそのショーのダンサー養成学校のオーディションに合格。毎日6時間のトレーニングが始まりました。
その日々は、僕にタップの本質を教えてくれる人生の転機となりました。アフリカ系アメリカ人のルーツ、タップのルーツをじかに学び、彼らが奴隷制という悲しい歴史からリズムという言語を使って感情を表現し、芸術を生み出してきた背景を知ることができたからです。程度は違いますが、僕自身も日本で不自由さを感じていたので、自分を表現して何かを生み出せたらという思いに強く共感しました。そして最も強く学んだのは、タップが単なるエンターテインメントや仕事の手段ではなく、彼らにとってとても重要な「生き方」であるということです。その思いは今でも自分の表現活動の根底にあるように思います。
アートが人をつないでいく
ニューヨークのタップコミュニティーは僕が思っていたよりも小さくて、映画で活躍しているようなダンサーたちでも、彼らが集まってセッションをしているジャズクラブなどで会うチャンスがあったのです。驚いたことに、憧れの名タップダンサーであるグレゴリー・ハインズと偶然練習スタジオで出会い、数時間2人で練習したことがありました。彼は自分たちの文化を次の世代の人たちや、あらゆる人種に分け隔てなく与えようとしていたのだと思います。その時間は僕にとって最高のギフト(宝物)であり、守っていかなくてはならないものを与えられたと感じました。
だから僕にとってタップは、とても個人的な芸術表現であると同時に、いつも彼らに感謝を表し、それをまた次の人へとつないでいくという使命を帯びたものなのです。
また、僕が通った大学の心理学の教授は、アートを通して心を表現し、それによって人とつながることの大切さを教えてくれました。特にアフリカ系アメリカ人のコミュニティーにとって音楽やアートは、暴力や犯罪といったネガティブなエネルギーから子どもたちを守る上でとても大切な文化だと学びました。かつて日本で、タップを踊るなど意味がないと言われてきた僕は、教授から「大事なことなのでぜひ続けなさい」と励まされ、心からうれしかったです。(談)