「失敗や恥では死なない」
出雲 充が語る仕事--3
それは奇跡のようだった
培養成功は「蚊取り線香」発想
栄養問題を解決できるとほれ込み、就職した銀行を1年で辞めて私はミドリムシの培養に心血を注ぎました。しかし2000年ごろの当時でも、培養できる最大量は月に耳かき1杯ほど。ミドリムシ研究を長い間続けていた大阪府立大学の中野長久先生のアドバイスを受け、私と大学の後輩である鈴木健吾(現ユーグレナ執行役員)は、夜行バスで日本中の教授や研究者を訪ね歩く日々。培養成功の9合目までは研究し尽くされており、私たちが失敗すれば日本のミドリムシ研究の火が消えるかも知れない。そこまで追い込まれた気持ちでした。
そして、成功させるには培養のためのプールが必要で、それがなければ大学の実験室でわずかな量しか培養できません。培養プールなんてあるのか。その大きな壁にぶつかった時に手を差し伸べてくれたのは、仕事で出会った福本拓元(現ユーグレナ執行役員)です。彼の実家はクロレラ(緑藻)の健康食品販売会社で、クロレラ培養のプールを石垣島で幾つか使っているというのです。頼み込んでその一つを借りられた幸運。しかし、ここからもミドリムシの培養は失敗の連続でした。
私たちはミドリムシを諦めることができず、他の仕事をしながら経費を捻出しました。ここでやめたら、世界の栄養問題を救えるミドリムシに恥ずかしいと思ったのです。仕事で歯を食いしばれるのは、人の役に立つと信じられるからですね。そしてついに05年12月、プールがミドリムシでいっぱいになりました。鈴木はこの時、66キロの乾燥したミドリムシを「収穫」したのです。涙が止まりませんでした。
培養を可能にしたのは逆転の発想です。他の微生物などの餌になってしまうミドリムシを無菌で培養できないのなら、ミドリムシしか生きられない環境を作ろう、と。例えば人が蚊を防ぐなら蚊帳をつって一匹も入らないように囲いますが、出入りの瞬間に蚊に入り込まれることがある。でも蚊取り線香をたけば蚊は近寄らない。誰も考えつかなかったその奇跡の策が効きました。
行動の支えは、尊敬するメンター
ところが、培養に成功すればすぐにでも製品化できるだろうと喜んだのもつかの間、現実は厳しく、2年間で約500社に営業して、どこにも相手にしてもらえませんでした。「誰でも知っている微生物なら、なぜ今まで健康食品に使われていないのか」と。それは培養が困難だったから、世界有数の日本技術を持ってしても今日まで成功しなかったから。そんなふうにいくら必死になって力説しても、20代の若者の話は通らなかった。
実に苦しかったですが、私は貧困者の自立に寄与してノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏や、何人かのメンター(助言者)の行動と思索を支えにしました。日本に生まれ、学び、自分のできることで社会を良くしたい。その私の考え方や行動に対して、心の師たちは即座にイエスと言うはずだと思えたのです。
仕事とは何かと考えた時、私はフェア(公平)とエクイティー(衡平)という二つを何よりも大切にしています。どこの国の、どのような境遇に生まれても、今生きているその立場と環境から、社会に公平と衡平をもたらすように働き続けたいです。(談)