「人生の後半戦も、僕らしく」
大江 千里が語る仕事--3
大人も、伸びしろは十分
過剰な負けん気は手放そう
47歳でジャズ留学を果たした僕を待っていたのは、音大でのレベル分けテストでした。そこで突きつけられたのは、40人近い同期の中で劣等生だということ。同じピアノを前にして、僕が弾くとポップスのリズムになり、別の学生だとジャズになる。謎でした。
後になってみれば、苦もなく課題をこなしているような彼らだって悩みを抱えていたと分かりました。でも当初は、級友たちから「こんな下手くそなやつに関わって時間を無駄にしたくない」という雰囲気で避けられ、本当に孤独でした。いくら練習しても追いつけない焦りの日々です。先生から、常にひざを揺すっていると感覚がつかめるよとアドバイスされ、実践していたら地下鉄の向かいの席から怪しい目で見られたり(笑)、下宿で自分のピアノ練習をビデオ撮影してじっくり観察したりと努力していました。
毎日どれくらい練習し続けたか分かりません。負けん気が強いというか、僕のような昭和の人間は血尿を出しても走るぞ、自分を痛めつければうまくなるんだみたいな気持ちで頑張っちゃう。そうやって無理していたんでしょう、やがて肩から腕、そして手指まで動かなくなった。そっと帰国して治療を受けるも完治は望めず、ニューヨークに戻って治療を続け、ピアノを弾けない日々がやって来ました。
トンネルに閉じ込められたようなこの時期に、音大の先生が「多くの演奏を聴けるだけ聴くこと」とアドバイスをくれました。これで耳が育った。一緒に演奏している時に相手が奏でる音を細やかにピックアップし、受け止めなくてはならないと気づいたんです。僕はずっと自分の演奏だけで頭がいっぱいだった。ピアノを弾けない長い治療期間は苦しかったけれど、扉が一つひとつ開くような大切な時間でした。これからは長く自然体でジャズを演奏できるように、大人の学び方をしていこうと思えたのです。だから僕は、進路や仕事を変えた大人たちに、若い人と競わなくていいと伝えたい。ウサギではなくカメでいいんだよ、と。
見も知らない彼らが踊った
ある日、個人指導をしてくれていたジュリアという名の先生の自宅レッスン中に、アフリカ系アメリカ人の2人の配達人がやって来ました。僕がピアノを弾き続けていたら、その場にいた2人が体を揺らして踊り始めたんですね。ああ、彼らもジャズが好きなんだ、僕の演奏はジャズに入り込みつつあるぞと本当にうれしかった。
こうしてボロボロだった1年目を過ぎ、2年生になる頃から演奏や作曲を褒められることが増えていきました。自分の実力不足は分かっている。でも、ほのかに春の雪解けのような光が差してきたのです。そしてほとんど日本には帰らず2年、3年、4年と踏ん張って大学の進級オーディションをクリアし、卒業にたどり着きました。ジュリア先生は「人と比べるのではなく自分を乗り越えるの。あなたの目標に集中するのよ」と諭してくれました。
では、僕はどうすればいいのか。日本での25年間にはポップスのオリジナル曲を作り、詞を書いてきたのだから、「心の情景を引っ張り上げるような音楽をジャズで表現できるのではないか」。ふと、そんな仕事が心に浮かんできたのでした。(談)