「必ず故郷を活性化させる」
千葉 祐士が語る仕事--1
「牛の目利きが生業」の誇り
茶の間にいつもプロがいた
生まれは岩手県郡部で、当時は川崎村という集落でした。砂鉄川という川に沿って田園風景が広がる美しい田舎です。私が30代半ばごろに一関市と合併しましたが、のどかさは今も変わりません。その地で父は牛を飼い、生業の牛の目利きとして東北地方では名人の一人と言われていたそうです。
父は、生まれて間もない2、3カ月の子牛を見て、これは種牛になるとその場で見抜いたと言います。自分で買った牛も他の農家で飼っている牛までも、血統書などを見なくても一目見て血統を言い当ててしまう。今日まで見てきた牛の姿形を、パッと写真のように記憶するデータベースを頭の中に持っていたのでしょう。この子牛が2年後にどうなるかが分かってしまう。そういう馬喰(ばくろう)(牛や馬の仲買人)でした。
だからうちの茶の間には、獣医さんや繁殖農家さんが来たり、餌屋の社長さんが来たり、馬喰仲間が相談に来たりといつも牛のエキスパートが出入りして、ずーっと牛の話をしている。そういう環境の中で、私はBGMのように聞くともなしにプロたちの知識を吸収していたと思います。
ところが私には、牛の仕事に気が進まない出来事がありました。10代の頃、スピーカーやチューナーなどが一体化したオーディオコンポがはやっていて、15万円前後でしたがどうしても欲しかった。朝4時半過ぎに起きて新聞配達を続け、毎月7千円ほどを母に預けて、2年間頑張ってそろそろ買うと母に言ったら、生活費に使っちゃったと言う。それで、牛の仕事はもうからないのかなと初めて気づきました。
その当時はまた、デザイナーズブランドの服が服飾雑誌に載っていて、1万円以上もするシャツや3万円もする靴に驚きました。本当かと東京に行った時にデパートで見たら確かにある。仕事をするなら、こういう欲しいものが買えるような職にと考えたのです。
経営に明るくなりたい
受験に失敗して大学浪人の身になってから、東京に住む叔父の家に身を寄せ、予備校の資金をためるアルバイトをまず始めました。居酒屋の厨房(ちゅうぼう)で深夜まで働いて、指の指紋がなくなるほど焼き鳥を何百本も焼き、月20万円ぐらい稼ぎました。約半年で予備校代を作り、疲労や眠気と闘いながら何とか仙台の大学に入ったんですね。
経営者になるつもりだったので経済学部の商学科を選び、またバイトも始めました。近くの個別指導の大手塾で講師をし、私は全国130教室中、売り上げ最高3位という成績を取りましたが、人気講師というわけではないんです。チラシを配り、電話でアポイントを取り、勉強の相談に乗りながら勧誘するなど策を練った結果です。全国で上位は皆プロの講師で、私だけが学生。「千葉ちゃんはすごいぞ」と言われ、このまま塾の経営をやろうと考えた。
しっかりと計算をしましたよ。塾の経費や原価は家賃と人件費ぐらいです。募集生徒数から利益も換算できたので、その塾のフランチャイズが希望でした。しかし大学4年時に塾の営業部長から、「新卒というのは1回しかないから、就職活動をしてうちを選んでくれたらうれしい」と言われたのです。そういうものか。じゃあ就職活動をやってみよう。何でもトライしようと思ったのです。(談)