「必ず故郷を活性化させる」
千葉 祐士が語る仕事--2
世間知らずのUターン
27歳の脱サラ
牛の目利きを生業とする家に生まれ育ちました。ただ、実家の仕事は将来的に厳しいかも知れないと思い、大学進学の道を選びます。そして、大学時代に講師のアルバイトをしていた塾で全国上位の営業成績を収めたので、そのまま塾のフランチャイズオーナーになろうと考えました。しかし、他企業の就職試験も受けてみようと4年生になってから活動を始め、大手フィルムメーカーに入社します。
そのメーカーで作られた製品は、商社を挟んで1次取次、2次取次、そして顧客へと納品する流通経路を採用していました。営業部に配属された私は、もちろん会社の仕組みの中で働くわけです。ただその新人当時から、ユーザーの反応を直接把握して企画、生産、流通まで一貫した方が業績が上がるはずだと、ダイレクトマーケティング到来の予感を持っていました。
仕事をしている皆さんにも経験があると思いますが、お客さんの様子をじかに見るほどやりがいというものは強くなるでしょう。だから私も、許される範囲で1次取次、2次取次を挟まない独自の営業方法を用いて新規獲得に頑張り続けていました。
ところが3年近く勤めた頃、偶然ですが私を含む同期3人のボーナス額を知ってしまったのです。私は別部署の同期よりも低かった。誰よりも数字を上げて貢献していたのに、たまたま所属事業部の業績がマイナスだったからという理由でした。これで踏ん切りがついた。様々に工夫し努力しても大きな会社組織とはこういうものなのか。それならやはり自分で結果を出す仕事だ、と気持ちが動いたのです。
頭から離れなかったのは、ダイレクトにユーザーとつながるビジネスをということでした。それにしてもどんな仕事をやったらいいのか、未熟な20代で会社を辞めていいものか、迷いますよね。そんなふうに悩みながら岩手の実家に帰った時、実家の牧場で飼育している牛がモーッと鳴いた。ああ、とひらめきました。牛を飼っていればうちは原料メーカーだ。私は商品化して直接ユーザーに売ればいいのです。行く道はあると思い退職を決めました
苦しい中で熟成肉に気づく
いずれは自分で事業をやる。それが私の仕事の目標でしたから、牛の肉を生産する原料メーカーとして、最も高い価格をつけられる業態にしたかった。考えついたのは焼き肉店でした。これで生産から小売りまでコントロールできる。つまり「お肉のユニクロ」のようなメーカーを目指そうと思ったのです。こうして、経営経験もなく修業もせず、故郷一関市ですぐに1号店を開店してしまいました。
入りやすい快適な店内、牧場から直送のうまい肉、そして自分の営業力。これだけそろえばいけると自信があったのに、店はふるいませんでした。それでも牛は1頭丸ごと仕入れるものだと思い込み、売れないから保存を工夫して肉が傷む前に自分たちで食べる有り様。そんな日々を2年ほど続けるうちに、仕入れてから時間が経った肉ほどおいしいと、熟成のすごさに気づいたのですね。
さらに牛1頭をさばき続けてきたお陰で、肉を82もの部位に仕分けられるようになっていました。仕事は、突き詰めることが重要なのですね。(談)