「光る目標が人を本気にする」
國中 均が語る仕事―2
日本独自で勝負を挑む
気の遠くなる未知の開発へ
ロケットを作りたくて大学院へ進みましたが、既に、燃料を用いて推進する化学ロケットが実際に作られ飛んでいました。しかし、まだほとんど手つかずの電気ロケットという分野もあると知り、私はその可能性に懸けようと、宇宙科学研究所で日の目を見ない研究に苦戦し始めました。
東大大学院で師事した栗木恭一教授は、10年後には電気ロケットの時代が来るからと、研究していた複数の電気ロケットを、将来のロケットのサイズに合わせるという品ぞろえを図りました。その一つが省力化できる電気推進機、イオンエンジンでした。そこには、日本ならではの宇宙科学技術への先見の明があったと思います。
日本はずっと大型打ち上げロケットを持っていません。米国などは既に有人飛行を行っていて、スペースシャトル級なら何百トンも宇宙に運ぶことができる。しかし、我が国の宇宙開発予算・人員・経験・知見では米国との真っ向勝負などとてもかなわない。宇宙科学研究所では小型の無人科学探査システムに注力するほかありませんでした。ならばこの科学探査機、つまり人工衛星を高機能化していくしか手立てはない。そんな日本の事情の中で、がぜんイオンエンジンが注目をあびるはず。
とにかく燃費が良く、それは化学ロケットの約10分の1。今まで100キロ積んでいた燃料が10キロほどで済み、軽くなった残り90キロ分は搭載装置が増やせる。非力な打ち上げロケットでもイオンエンジンと組み合わせることにより、宇宙の遠くへ出掛けられ、理論上は地球に帰ってくることもできる。当時は見向きもされなかったけれど、早晩そうなることを予見して、私たちは1980年代終わりからイオンエンジン作りに格闘し出したのです。
責任と競争関係に挟まれて
少し専門的になりますが、研究当初、イオンエンジンには米国が作った直流放電式というタイプしかありませんでした。私たちは、どうせ電気ロケットを作るならと、世界初で日本オリジナルのマイクロ波放電方式を目指します。が、世界を見回しても参考になるものがないという状況は過酷でした。最先端を開発するという恐ろしいほどの怖さ。果てしない数の実験で失敗を繰り返し、うまくいかないかも知れないという不安で眠れぬ夜は何年も続き、そうしてようやく、小惑星探査機「はやぶさ」の耐久試験に入りました。
イオンエンジン自体の耐久試験は96年から始まりましたが、最も苦戦したのは中和器という独自の部分です。組み込む度に壊れてしまい、はやぶさを予定通りに飛ばせないかも知れないと危機感が募る。散々手を尽くし、もういよいよこの実験でダメなら米国の製品の力を借りるしかないと追い詰められた時、いい結果が出たんですね。何事も決して諦めてはいけない。
日本がはやぶさをイオンエンジンでいくと決めると、後から始動したはずの米国が98年に探査機を打ち上げたんです。ただ、日本が構想した地球帰還は計画になく、実際は小惑星のそばを猛スピードで通過してわずかに観測しただけ。でも、イオンエンジンを地球よりはるかに遠い「深宇宙」で使うという成果を先に取られてしまった。これは悔しかった。宇宙科学も切磋琢磨(せっさたくま)の競争関係の上にあるのです。(談)