「光る目標が人を本気にする」
國中 均が語る仕事―1
「ごくつぶし」と言われ続け
誰もやらない電気ロケット研究へ
幼稚園児の頃から、鳥や飛行機のような飛ぶものが大好きだったようです。その思いはずっと変わらず、仕事も「空」を目指しました。進学を決める高3当時は、航空宇宙学科のある大学が数えるほどで、私はその学科がある京都大学へ通い始めました。ただ、京大では実学ではなく理論の勉強がほとんど。やはり私は実際にロケットを飛ばしたいという思いが強かった。
次は大学院へと考えて、京大から東京大学に転籍した先輩方の様子を見学に行くと、その多くが宇宙科学研究所という所に出入りしている。いろいろ話を聞くと、先輩いわく「ロケットはもう研究の対象ではなく、実物を作る段階になっている」とのこと。ただそれは化学燃料を使って飛ばすロケットを指していました。そして「電気ロケットという発想もあるけれど、これは全然何の役にも立っていないんだよ」と言うのです。まだ海のものとも山のものとも分からない。研究者たちが関心を持っていない。私は、そこまで手つかずならそれはちょっと面白いんじゃないかと思ったんですね。
東大大学院のその電気ロケットの研究主宰が栗木恭一教授でした。真摯(しんし)で穏やかな、でも信念を持った教授で、「今はまだ途上だが、十数年後には必ず電気でロケットが飛ぶ」と、各種電気ロケットの研究をなさっていた。ほとんど誰も手をつけない新領域「電気推進」です。だからこそ、この研究には伸び代があるはず。私は前例がないからやってみようと考えるたちで(笑)、孤軍奮闘する栗木教授を師と仰ぎました。
ところが教授はお金を取ってくるのが苦手で、研究費の予算が全くない本当の貧乏研究室。ただ、宇宙科学研究所には工作室があって旋盤やフライス盤がズラッと並び、何でも自分の手で一から作れるのです。もの作りをやりたかった私にはそれが面白く、ほぼ毎日通って全部手作りでの研究でした。
揶揄(やゆ)されても、そこから学ぶ
予算がない中、電気推進の一方式であるイオンエンジンの研究を進めるため、秋葉原の電気街や近郊のジャンク屋を回って中古部品を買い集め、マイクロ波を出す装置を手製しました。かつて工作室には技官さんがいて、この人がまた怖いほどつっけんどんだった。でも入り浸っていると次第に教えてくれるようになり、全ての機械を使わせてもらえるようになりました。どんな人でも懐に入ってしまえばこっちのものだと、この時学びましたね(笑)。
大学院を終えて助手となり、1988年に宇宙科学研究所に着任したのですが、イオンエンジンを含む電気推進は、まだまだ研究途上。その頃、研究所は移転され、真新しい8階建てのビルに引っ越しました。他研究室の先生方とエレベーターに乗り合わせると、「電気推進なんて役に立たない」「お前たちはごくつぶしだ」とガンガン言い放たれる。1階から7階ぐらいまでわずか30秒ほどですが、一言も言い返せないんです。本当に悔しかったけれど、論理構築し理論武装する機会を与えてくれたので、大いに勉強になりました。
その頃は燃料を使う化学ロケットが全盛で、次々に飛ばしていた時代です。「電気ロケットをいつまで研究し続けるのか、本当に実用に足るのか」。そんな揶揄する空気の中で私はあがいていました。(談)