「独自を求め、我が声を聞こう」
皆川 明が語る仕事―1
道のない地図を歩く
目標が突然消えた18歳
ごく普通のサラリーマン家庭で育ちました。ブランコに乗って空を見上げているのが好きだったりして、自然の情景を飽きずに眺めている子どもでした。祖父母がヨーロッパの輸入家具店を営んでいて、革張りのソファや家具に隠れて遊んだ記憶があります。祖母が漆について「日本最古の塗料で何百年も持ち、長い時間を経ると透明感が出て中の赤が浮かび上がってくる」とお客様に説明している言葉なども明確に覚えています。
中学、高校で夢中になったのは陸上競技です。まだ小柄で体の細い選手でしたが、指導してくれた先生が私の筋肉の成長をじっくりと待ち、時間をかけて長距離走の選手として育ててくれました。毎日の生活は陸上一色。寝る前には必ず1本か2本レースを想定して、スタートからゴールまでをシミュレーションしたりしました。20代後半にはマラソンを走れるようになりたいな、その後は指導者かな、と進路や仕事もその延長でしか考えていませんでした。
人生初のファッション現場
その夢が突然終わったのは高3の時です。陸上選手としては致命的な骨折をし、体育大学への進学を断念。もう受験勉強も間に合わない時期で、私は卒業後に進む道をなくしてしまった。ふと、旅に出てみようとヨーロッパヘ向かいました。パリにある美術学校に漠然とした興味が湧いて、入校したわけではないのですが、最初はフランスに行きました。絵を描くのは子どもの頃から好きだったのです。
フランスでホームステイをし、フランス語学校に通い始めた頃、そこで出会った日本人女性がパリ・コレクションのバックステージでアルバイトをすると言う。面白そうなので、私も頼んで手伝わせてもらいました。服をモデルに着せてラインを調整するといった雑用係、針を持ったのは家庭科の授業ぐらい(笑)。ただ、その場の独特の空気に、「洋服を作る仕事は面白そうだなあ」と衝動のような気持ちの動きがありました。
そして帰国後、パリ・コレクションで感じた高揚を信じて文化服装学院の夜間部に入学し、昼は縫製工場でバイトを始めました。自分の才能を確信していたわけでもなく、それを仕事として選んだのか、と問われれば「やってみないと分かりません」と答えるしかない不確かな選択だったかも知れません。ただ、一度信念を持って決めて始めたことは、諦めずに長く続けたい、という思いがありました。
学校では、先生から教わる洋服作りがなかなか理解できないし、自分自身も不器用で、全く優秀ではなかったですね。それでも、長い時間はかかるだろうけれど、いつかはきっとできるようになるから焦らなくていい、とは思っていました。陸上をしていた頃も同じでしたが、物事の始まりの段階ではうまくいかなくて当然だと思う気持ちが、どこかにありました。今でもそう思っています。人生の過程においてだけではなくて、仕事でも言えることではないかと思います。
頭でイメージしたことは、体に落ちてくるまでには時間と経験が必要でしょう。焦らず、ただ目の前の課題に向き合い、解決していけば、次が見えてくるのだと思います。(談)