「日本ファンを増やし続ける」
谷川 じゅんじが語る仕事―1
自分が幸せな仕事は何か
感動体験のアルバイト
僕が初めて働いたのは20歳の頃。千葉の自宅に近い、1983年開業でまだ3年目の巨大テーマパークでした。当時父を亡くし、続けていた剣道や通っていた大学への意欲もなえて、さてどうしようかという時期でした。自分が今まで経験したことのない環境へ行こうと希望し、アトラクションの運営キャストに採用されます。訪れるゲストをもてなし、笑顔になってもらう喜びを存分に味わえる職場でした。
テーマパークの人気は高く、また、拡張投資の最初の時期でもあって大きなアトラクションがすごい勢いで出来上がっていきます。そのテーマパーク事業の成長過程の多くを、僕は現場内部から見ることができました。また仕事も、キャストを指導するトレーナーというポジションに変わり、たくさんのキャストを育てる中で、何度も何度もパークメソッドを反芻(はんすう)したことも大きな経験になったと思います。
働いた約3年間は、ゲストに感動を持ち帰ってもらいたいという、同様のマインドや志を持つ数多くのキャストと一緒に働くことができ非常に楽しかった。一つの魅力的な空間で、キャストみんなが生み出すものに期待し、喜び、支持してくれるゲストが毎年1千万人以上も訪れる。そして双方が共に感動する。循環装置のように、この状況が運転され続けることのすごさは、僕に、幸せな仕事とは何かというものを考えさせてくれました。
もしこのテーマパークがずっと何十年も続いていくとすると、喜びを体験したゲストは、自分の子どもや孫を楽しませるためにリピーターになっていく。それは、感動のバトンを渡したいということですね。そう考えた時に、僕ははっきりと自分の目指す仕事が見えてきたと思いました。
プロフェッショナリティーの核
テーマパークで働く中で当時確信したのは、人は喜びを求めて生きていくものだということでした。今日よりも明日はもっと良くありたい。目の前にあるものに少しでも希望を見つけながら生きていきたい。それが本質ではないか。そう思い至った僕は「人が喜ぶことを求めて生きる領域」に、自分の仕事道というか、プロフェッショナリティーを定義しようと考えました。
僕はずっと剣道部でタフでしたから、もし順調に大学を卒業していれば、おそらく就職には困らなかったでしょう(笑)。ただ、既に大学を途中で辞め、いわゆる社会的なレールから一度ドロップアウトしていたので、自分で自分の核を決めないとライフデザインができないという焦りがありました。この先の自分はどうなっていくのだろうかという不安を取り去ることができず、何のために仕事をするのか、僕自身で目標を立てなくてはと思ったのです。
テーマパークでは、キャストとアトラクション、そしてオペレーションの全てによってゲストの「思い出のデザイン」を作り上げようとしていました。それはプロフェッショナルならではの仕事です。そこでしか体験できないという感動の空間を作り、楽しい思い出を持ち帰ってもらうこと。おそらくテーマパーク以外でも、日本中で求められるそんな空間作りを仕事にしたらどんなに楽しいか。そう腹を決めてテーマパークを辞し、施工を中心にする大手の空間装飾企業に進みました。(談)