「いつも、なぜと問い続けよう」
堀 潤が語る仕事--1
生きづらい体験を経て
僕は社会に期待していなかった
父親が商社勤務で転勤が多く、僕は兵庫県で生まれ、幼稚園は大阪、9歳の頃には東京の小学校に転校しています。その後、小学5年でまた大阪へ引っ越しました。関西と関東を行ったり来たりする度に、言葉が変だなどと馬鹿にされ、上履きに画びょうを入れられるようないじめを受けたこともありました。
中学は大阪。いじめられる毎日でしたが、ある日勇気を振り絞って「ふざけんな」とすごんでみたんです。そうしたら相手が黙った。この時からやり返すことでいじめがやみ、友だち関係を築けるようになっていきました。ところが、中学2年で今度は横浜へ転校です。校内にたばこの吸い殻が落ちているような荒れた学校で、からかう上級生にやり返そうとしてボコボコに殴られました。怖かった。それからは上級生から逃げるため毎朝、授業開始の2時間前には教室に入る日々を送りました。
それでも、小中学校を通していじめられていることを両親には一度も話しませんでした。僕をとても大事にしてくれて、いい子に育ったと信じている両親に「学校では汚れ物のように扱われている」なんてどうしても言えなかった。何事もなかったように帰宅していたのを覚えています。いじめ問題の根深さには、いじめられていることを誰にも言えないという背景があります。今思えば僕も、置かれている現状を「伝えられない苦しさ」を体験していたのです。これは、メディアの仕事に携わるようになってから「伝えることは大切だ」という指針になりました。
いじめの影響も大きかったのですが、僕が眺めていた当時の社会環境もまた、僕に何かしら作用したように思います。当時は不穏な出来事が多かった。バブルが崩壊し、リストラが行われ、自殺者も増加。サリン事件や少年による残酷な犯罪などが次々と起こりました。政権は短期間で代わるし、僕はそんな社会には期待できないという諦めの中で、反骨精神を持ち続けていました。
異国の人の優しさに救われる
高校時代は音楽に明け暮れて授業にはあまり参加せず、成績は学年で下から2番目。大学受験は当然落ち、偏差値35ぐらいからの再スタートでした。浪人生活を経て大学に進学。ドイツのパンクロックや文学が好きだったのでドイツ文学科で学び始めます。でも原語が本当に手ごわい。せっかくなら本場でしっかりものにしようと一念発起してドイツへの語学留学を決めました。
こうして、留学費用を自分で工面し現地学校へ通います。クラスは欧州各地からの女子学生が中心。アジアから来た青年に声をかけてくれるクラスメートはいませんでした。孤独な気持ちで公園に行き、口の中が切れるような硬いパンをかみ砕く独りぼっちのランチ。そしてある日、このままじゃ留学の意味がないとベンチに座っているおばあさんに話しかけ、仲良くなれたんですね。やがてクラスメートの40代の米国人女性とも打ち解け、彼女がいつも「あなたは大丈夫よ、潤」と励ましてくれました。
ギリギリの精神状態の時に、言葉や文化が違う異国で人に支えられた経験はありがたいものでした。ずっと刹那(せつな)的に生きていた僕が、世の中は捨てたもんじゃないなと思い、「社会に出るなら誰かの役に立ちたい」と考え始めるようになったのです。(談)