「新しい価値を見いだす仕事へ」
五十嵐 美幸が語る仕事--2
成果と重圧は背中合わせ
怖いもの知らずの22歳だった
家業の中華料理店を小学生の頃から自然に手伝い、高校でも料理分野を選択。それは自立できる腕を磨き、何かあれば店を守るという責任感からでもありました。一方で、この料理の道を進む形でいいのかという迷いも抱えた10代でした。
父は知る限りの技術を教えてくれました。さらにもう一人、中国料理店「竹爐山房(ちくろさんぼう)」のオーナーシェフを師とし、「教えるのは料理の作り方ではなく、勉強の仕方」と、素材を深掘りする姿勢を育ててもらいました。ここでの学びが私の料理への原点となり、夢中になるきっかけとなったのです。
やがて18歳で父と共に厨房(ちゅうぼう)に立ち、毎日の調理に一生懸命だった22歳のある日、テレビ関係者が出演依頼に訪ねてみえました。誰かがうちを紹介してくださったそうです。
その頃、父が体調を崩して入院し、今、店を仕切っているのは私だけなのでとお断りしたら、先方が「あ、見つけた!」という表情になった。22歳の女性料理人は貴重だから、私に出演して欲しいと言うのです。番組は2人の料理人が対決する「料理の鉄人」。私にはとても無理だと気が進みませんでした。
ただ、何度もお断りをしているうちに、担当者の「これから料理を目指す若い子たちのために出てもらえませんか、あなたを見て勇気が湧くかも知れないんです」という説得に気持ちが動きました。料理は厳しい仕事だと思いますが、でもおいしさと健康を届けるという素晴らしさがある。私が精いっぱい挑戦する姿を見てもらえればいいのかと決心しました。
胸を借りる対戦相手は中国料理の第一人者、陳建一さん。テーマ食材は収録直前まで伏せられ、60分間ノンストップで調理。課題は「キュウリ」でした。その頃も私は旬の野菜を学び続けていたので、「キュウリのいろいろな表情を見せ、おいしく作ろう」と夢中でした。22歳で失うものは何もないし、怖くはなかったんですね。勝負は僅差(きんさ)で負けましたが楽しい体験でした。でもその時から、思いがけず、自分とのつらい闘いというものが始まったのです。
「もっと頑張るしかない」という呪縛
テレビ放送が終わると「天才だ」「本当にすごい」と注目され、それに応えてもっともっと頑張らなくてはと、ほとんど睡眠も取らないほどがむしゃらになってしまいました。店には大変な数のお客さんが押し寄せ、期待されているのに「まずい」と言われたらどうしようとプレッシャーがのしかかります。あれだけ好きだった料理が、つらくて仕方のない仕事になりました。
店の繁盛ぶりに親は喜び、銀行が次々に融資してくれるので店を広げ、もう止めようにも止まらない状況です。私は、2、3年ぐらい歯を食いしばって働くうちに自律神経や甲状腺に異常をきたし、腱鞘(けんしょう)炎の痛み止めなしでは料理ができないところまで追い込まれました。けれど、「やっぱり女性だから仕事が甘い」という偏見だけは持たれたくありません。誰にも苦しいと弱音を吐けず、一人で闘うことしかできなかったのです。
仕事で挑戦したら、良くも悪くも結果を受け止める覚悟がいる。それを手痛い体験から学びました。(談)