「ハードルは山より高くとも」
菊池 康弘が語る仕事--2
地元にできることは何か
人の求めに応えたいと気づく
高校卒業後はフリーターをして、適性も分からないまま芸能事務所に入り、その後、演出家である故・蜷川幸雄さん主宰の「ニナガワ・スタジオ」のオーディションを受けました。最終面接で落ちたのに諦めきれず、蜷川さんに待ち伏せ直談判して入所。365日2年間弱通い詰め、イギリス公演にも自費でついていき、イギリス演劇に圧倒され自分の才能について思い悩む日々。そのうち、大きな役をもらえない中で制作スタッフの方から、俳優・上川隆也さんの付き人を探していると声をかけられました。
上川さんは舞台だけでなく映画やテレビでも活躍している俳優さんなので、間近で学んでみたいと付き人として同じ事務所に入れて頂くことにしたんです。蜷川さんは僕の決心をちょっと寂しそうに聞いていました。その後約4年半の付き人を経て役をもらう機会もあり、死ぬまで俳優をやる気でいたある日、井上ひさしさんの戯曲で蜷川さん演出の舞台、4時間を超える大作「天保十二年のシェイクスピア」を見ていました。
ところが見終わった頃、天啓というのか自分の心の声か分かりませんが、「やめろ」という声が聞こえたんです。驚くような不思議な体験でした。作品を前にして、自分が舞台の上で演じているイメージを全く持てなかったからだと思います。そしてきっぱりと何の未練もなく俳優をやめました。あれは蜷川さんの声だったのかな(笑)。29歳でまた、自分がどうしたいのか分からなかった19歳の振り出しに戻ってしまいました。
舞台を見に行くこともなくなり、できることと言えば10年近くアルバイトを続けていた飲食業ぐらいで、何とかバーで仕事をさせてもらえることになりました。そこで店長としてメニュー決めや料理を自由に任され、お客様のリクエストに次々と応えているうちに楽しくなっていったんですね。俳優として売れない時代は生活費を稼ぐために仕方なくこなしていた飲食業なのに、気づけばやりがいが生まれていた。
昔のように映画館があれば
なぜ、そこで僕に変化が生まれたのか。それは、自分の価値観だけで動くのではなく初めて人を喜ばせる手応えをダイレクトに感じからです。俳優の頃は作品の登場人物を演じきることが目的になり、その先にいるお客様を楽しませたいという意識はありませんでした。結局、プロとしての自覚に欠けた自己満足に近かったのかも知れません。
こうして飲食業の面白さに目覚めた僕は、故郷の東京都青梅市で焼き鳥店を開業しました。そしてお店も従業員もお客様に愛される店になろうと努力して数年後、こんなにたくさん頂いている愛情にお返しをしたい、地元のためにできることはないかと考え始めたのです。一つ早くから持っていた構想は、お客様からよく聞く「昔、ここ青梅には映画館が3館もあった」という話をヒントにした、「また映画館を造れないか」というものでした。
あったらいいなとは思っても、誰も造りそうにない。でも地域活性化につながるビジネスチャンスにもなるのではないだろうか。それがどれほど大変なことなのかと足踏みする間もなく、僕はついに走り始めてしまいました。(談)