「自分から変化していくしかない」
北川 達夫が語る仕事--1
音楽で生きたかった
生きがいを断念したわけ
大学時代のことですが、中学・高校時代の同級生に大学を出て外務省に行くと話したら、「つまらない」「もうちょっと面白いことをすると思った」とすごく残念がられたのを覚えています。中高を過ごした学校には音楽部があり、僕はその中の室内楽班でバッハなどバロックの時代、あるいはそれ以前の演奏再現に夢中でした。即興演奏を混ぜながらの、当時の色々な演奏をよみがえらせることに生きがいを感じ、音楽を一生やっていこうと思っていました。
でも、その夢を絶とうと決心する出来事が幾つかありました。僕の周りには突出した才能の人が多く、僕は自分の才能に自信がなかったし、さらに、人前で演奏するより、昔はどんなふうに演奏したのかと考えたり、調べたり、練習したりすることの方が大好きなのだと発見しました。そして思いがけないことが起こります。あるフランス人の先生の前でチェンバロを弾いたところ、いきなり「君は今の音に神を感じていたか?」と聞かれたのです。
予想もしない質問に、神様のことなど考えたこともないと答えると「君にヨーロッパの、しかも古い時代の音楽をやるのは無理だ。神に捧げる音楽なのに人に神を感じさせることもできない。君には哲学がないのだ」と言われたのです。衝撃でした。音で神を感じるために宗教音楽があり、中世からルネサンス、バロックへの過程で、芸術は神と折り合いをつけながら共存してきた歴史があります。表面的な演奏技術だけでは表現できない深淵(しんえん)をのぞいた気持ちで、僕は音楽を諦めました。
中高時代を丸ごと費やしても生涯の仕事にはできない。そう判断したものの次に進む道が見つかりません。未練が残る音楽周辺の仕事に就くのは潔くないとも感じました。すると父が「興味がないことなら何をやっても同じだから、一番興味のないのはどうだ」と面白いことを言うのです。それなら嫌いなのは法律など決まりがある分野だと、法学部に進みました。
嫌いな分野で淡々と
進みたかった夢に破れ、全く興味がなく幻想も抱いていない法学部だったので、固定観念はなく、嫌っていた法律だけどちゃんと考えて作られているんだと淡々と学びました。ただ、もともと協調性もなく、しがらみや忖度(そんたく)が大嫌いな私が外務省を選んだのは、まだ芸術への未練が残っていて、文化外交というものができるのではと期待したからです。でも若いうちは無理だと一蹴されました。
外務省は上下関係が厳しく、新人の僕は「おい」と呼ばれ、上司の動向を見ながら次にするべき行動を判断して書類などを取りに飛んで行くという毎日。ただ、いつも厳しい上司が「つまらん仕事をやらせているかも知れないけれど、誰かがやらないといけないんだよ」と言ったのですね。ある時、僕は同時に色んな仕事を頼まれ順にこなしていたら、その上司が黙って書類を取りに行ったのです。業務の流れを滞らせないためだと思いますが、どんな仕事でも意味があると語った行動そのものでした。
やがて僕は在フィンランド日本国大使館在勤となり、人はみな価値観が違うという現実と対峙(たいじ)することになるのです。(談)