「少しずつ何度でも人は変われる」
工藤 公康が語る仕事--1
出会いに背を押されて
現役引退を決めた被災地訪問
2011年の11月に野球選手生活にピリオドを打つ気持ちを言葉にしました。プロ選手となって約30年、僕は48歳。1年くらい前から肩の調子が思うようではなくリハビリを続けていたのですが、まだまだやれる自信は残っていたんです。それがなぜ引退となったのか。きっかけはその年3月に起きた東日本大震災の後の子どもたちとの出会いでした。
震災後の6月、僕も何かできないかと宮城県石巻市を皮切りに幾つかの被災地を訪ねたのですね。グラウンドはまだ整備もできずぐちゃぐちゃな状態で、100人ほど子どもたちが集まってくれたけれど、一人ひとりに指導する野球教室もできる状況ではない。それで「俺が投げるから、試合をしよう」と50人ずつの2チームに分け、先攻チーム50人が連続で打ち、守備を交代してまた次の50人が連続で打つルールにしたんです。ピッチャーは僕一人、多く得点を取った方が勝ち。
被災後でしたので、「楽しい野球教室」という雰囲気はとてもではないですがありません。それでも次第に大人から声がかかり始め、子どもたちからも声が出るようになって盛り上がっていきました。ただ、現地に行って初めて現状の悲惨さや、悲しみ、つらさを肌で感じてひるみましたね。福島県郡山市の中学校では、放射能の影響があるグラウンドの土を5~10センチ削り、それを穴を掘って埋めていました。埋めきれない土があちこちで山になり、それを覆うために土をかぶせる。そうやってやっとできたスペースで遊べる時間は安全を考えて2時間ほど。僕が伺ったのはそういう時期でした。
復興への思いは強いけれど、誰も先が見えない。被災地を巡り、これから野球で子どもたちを笑顔にしていけないだろうかと、そんな考えが頭から離れなくなった頃です。行く先々で100人近い相手に僕一人でずっと何百球も投げ続けるので、肩はいっそう壊れていきました。痛みに耐えかねて帰りの新幹線ホームで氷を買って冷やしていた時、「ああ、もうこれでいいかな」とふと引退が心に浮かびました。
見つかった「やめる理由」
48歳という年齢までプロ選手として現役で頑張れたのは、もちろん野球が人生の柱だったからです。きついトレーニングや肩のリハビリも続け、限界を自分の肉体で試してもいました。「そろそろか」と「まだまだいける」という二つの気持ちが行ったり来たりする。どんな仕事をしている人でも、そんな決断に迷う時があるのではないだろうか。僕もその真っただ中にいたんですね。
でも、惨状の中にあって野球で笑顔になる子どもたちと接して気づいたのです。僕は彼らの「野球をやりたい」という思いを応援する役割になればいい。現役で頑張るよりその方が価値があるぞと。やめる理由を見つけた思いでした。元々野球少年たちは不適切な環境下でのボールの投げすぎが要因の「野球肘(ひじ)」などの故障も多く、ケガ予防となるトレーニングなど育成には強い関心がありました。それで筑波大学大学院に入学してスポーツ医学を学び始めました。
計画では15年から専門医とのチームで全国の少年野球チームを回る予定でした。その時、福岡ソフトバンクホークスから監督就任の要請を頂いた。また変化が巡ってきたのです。(談)